幸いとは

ある時、人にこう聞かれたことがある。今までの私の人生において、一番幸せだった瞬間とはいつであったか、と。質問の意味は難しいものではない。文章的に考えると、なんのひねりもひっかけもない、実に単純な問いである。ところでもし、私が同じ問いを人にしたのであれば、果たしてその人は何と答えるであろうか。すぐに答えることができるであろうか。ちなみに、私はこの質問にすぐ答えることができなかった。しばらく考えてはみたものの、やはりそれでも答えることはできなかった。しかたないので、そんな瞬間があったのかどうか分からない、そう答えるのがせいぜいだった。すると、その人は呆れてしまったのか、他の話題に会話を移してしまった。

たしかに字面だけを見れば簡単な内容のようであるが、ちょっと考えてしまうと、それほど答えるのに容易な質問ではないのが分かってくるからだ。少なくとも私にはそう思われるのだ。まず、この質問をされること自体、今の私が幸せでないことが前提になっている。もしかしたら、私は今のこの時に幸せだから、過去のある瞬間において幸せだったということができないかもしれないではないか。また今までの私の人生を振り返るなんて、とてもじゃないが、無理なことである。赤ん坊の頃の記憶などないわけだから、過去の瞬間をそれぞれ比較して、どの部分が幸せで、どの部分がそうではなかったなどと、そんな短時間で答えられるわけがない。いや、時間がどれだけあったところで忘れた記憶など取り戻せないから無理だろう。また、こうも考えることもできよう。確かに自分の過去において、良かったと思えることがあったとしよう。しかし、そのことの結果が常に良いものであり続けたかどうか言えば、案外そうでもなかったりするのが、私の経験から導き出した真実である。であるとすれば、その良かったと思えることが、本当に幸せと言い切ることができるのか、どうしても疑問に思えてしまうのだ。

だが、もっと基本的なことかもしれないが、そもそも幸せとは幸福とは、一体何なのだろうか。それは気持ちの問題であり、心の状態なのだろう。だとすれば、それは人によって様々だろうから、永遠にその答えを見出すことはできないように思えてならない。私にとって幸せと思えることでも、人にとってはそうではないかもしれないし、その反対もまた然り。

これが幸せというものである、と明確な答えがあったら、世の中色々なことがもっと簡単になりそうな気もするが……さて、どうなんだろうか。

それはさておき、ルカが書き記した福音書に話を戻そう。イエスと弟子たちが旅の途中において、群衆に話をしていたときのことであるが、その時そこに集まっていた群衆の中の一人の女性とイエス・キリストとのやりとりが記録されている。「群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』」(ルカの福音書11章27~28節)

この女性にとっての幸いが何であったかと言えば、イエス・キリストのような人物の母親になるということだったのかもしれない。彼女にとっては、イエスご自身が何者であるかということよりも、彼のような不思議な力を持った者の母親は誰であるかということだったようだ。もしかしたら、自分もそのような者になりたい、自分もその女性に幸運にあやかりたい、そのようなことを考えたかもしれない。

しかし、それが本当に彼女にとって幸せなことだったのだろうか。彼女はそう考えていたかもしれないが、イエスはそう考えてはいなかった。イエスにとっての幸いとは、神のことばを聞いて、それを行うことであった。

もしイエスに、一番幸せだった瞬間はいつか、と聞いたら、神のことばに聞き従っているとき、と答えることだろう。そして、彼は神のひとり子として、常に神のことばに従っていた。地位も財産も名誉も何もなく、何も持たず、ただ休むことなく諸方を巡り歩いては、人々を助け神の国の訪れを伝えていた彼のことを、俗な私から見れば、それが幸せなのかと問いただしたくなるだろう。しかし、それが彼にとっての幸せであったのだ。

幸せを目的と捉えるか、それとも結果と捉えるかでも、また感じ方が違ってこよう。幸せが何かも分からずに、それを追い求めるよりは、何かの結果として幸せであると考えることの方が容易なのではないだろうか。私ごときがイエスのようになれるとは思わないが、彼のように神のことばを聞くことを幸いと感じることができれば、どんなにか日々心穏やかに過ごせるだろうか。聖書を開き、読むだけで、幸せになれるのだから。私には永遠にたどり着けなさそうな境地である。