鏡を見たならば

私は朝に弱い。家族の中でも私が一番遅くに起きる。もっとも、寝るのも一番遅いから仕方がないのかもしれないが。たまに朝の四時くらいに目を覚ましてしまうこともあるが、それはごく希である。そのように、日が昇ってから間もない刻限に目を覚ましてしまうと、何やら時間が勿体ないと思えてしまい、いっそのこと始発に乗って仕事にでも行こうか、と考えることもあるのだが、朝ご飯の係がまだ夢の中だから、それもできない。自分で何かを用意するとか、途中で何かを調達するとかでもいいのだろうが、どうもそこまでする気も起きないのである。

さて、朝に弱い私であるから、あまり朝の支度に時間を掛けたくないというのが正直なところだ。私が髪を伸ばすのも、反対に短く刈るのも、その理由はそこにあると言えよう。そして私が一番苦手とするのは、髭剃りである。週末とか休日とか、特に外出するというのでもなければ、手入れなどしない。文字通りの無精ひげそのままである。髭が濃ければ、ある程度伸ばしても格好がつくのだろうが、私が伸ばしてもみっともない以外の何ものでもない。あぁ、髭を伸ばせる人が羨ましい。そんなわけだから、私は前日に髭を剃るようにしていたのである。だが、それはそれで問題があった。なんと言っても、疲れて帰ってきて、風呂に入って髭を剃るという行為が面倒になるのだ。だから髭を剃るのが、いつの間にやら二日に一回とかになる。しかも、前の日に剃っても、翌朝には少しずつ伸びてきているのだ。ましてや、二日目の朝となると、どうにもみっともない。朝に剃れば、すっきりして良いのは分かっているのだが……そうだ、電気シェーバーを買えばいいんだ!カミソリの替刃とさほど変わらぬ値段で買えるのだから試す価値はあるだろう。

というわけで、先日シェーバーを買ってみた。ここしばらくは休みの日でもない限りは、毎朝髭を剃っている。なるほど、これはさっぱりするし、時間も掛からないからちょうど良い。どちらかといえば身だしなみにこだわることのない私であるが、それでもむさ苦しいのは納得できないから、結果としては一石二鳥と言えよう。そういえば、聖書には自分の姿を鏡に見て、何もしないで立ち去ってしまう人の話がどっかにあったようだ。ちょっと捜してみたら、見つけた。そうそう、これだ。「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブの手紙1章23~24節)

神のみことばを聞いても、それを気に留めることもなく聞き流すのであれば、それは鏡を見ても、何もせずにそのまま立ち去ってしまうようなものであると。そのような人は見苦しいままで過ごすことであろう。ところが、神のみことばを聞いて、それに従って行動するのであれば、そのことゆえに人は祝福されるのだ。それは鏡を見るかのように自身を省みて、その過ちを正すことでもあろう。

そういえば、イエス・キリストもこれと似たようなことを言っている。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカの福音書11章33~35節)

明かりを持っていながら、それを隠しておくのは意味のないことであるのは明らかであろう。それでは、一体何のための明かりなのか、明かりの存在意義そのものさえあやふやになってしまうに違いない。明かりは暗いところ照らすためのものである。明かりに照らされてさえいれば、壁や家具にぶつかることもないだろうし、何かに躓いて転んでしまうこともないだろう。どこに何があるかを知ることができ、目指すところに迷わずたどり着くことができるだろう。

そして、信仰を持つ者にとっては、神のみことばこそが明かりである。人がそれを聞いて、それに従って生きるのであれば、その明かりはその人の中にも宿ることになるのだろう。つまりその人自身が明かりとなり、人々を同じようにして導くことができるのだろう。ところが人が自らの明かりを消してしまうのであれば、すなわちその目のみるところ、またその耳の聞くところによって惑わされ、神のみことばから心が逸れてしまい、鏡を見てそのまま立ち去ってしまったとするなら、人は再び暗やみとなってしまうのであろう。

しかし、神のみことばが人の心に留まり続けるのであれば、「その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」(同36節)