手を洗う

世の中には潔癖症の人もいるようだが、私にはまるで関係のないことだ。髭は毎朝剃るように心掛けてはいるが、だからといってきれい好きというほどでもない。前回も書いた通り、見苦しくないようにしているだけである。まぁ、そう言っているわりには、腹回りの無駄な肉がみっともないのだから、これはさすがにまずいだろう。と思うのだけれども、何か努力をしているというわけでもない。いやはや、これではどうしようもないなぁ。

それはそうと、身だしなみには気を配るけれども、清潔かどうかには、さほど気を遣わない人が世間にはいるようである。実際、トイレに行った後に手を洗わない人が結構いることに驚かされる。男子トイレでよく目にするのだが、用を足してから、鏡の前に立って、髪をなでつけたり、服のあちこちを触ったりという具合で、身繕いには余念がないようなのだが、その前にも、その後にも手を洗っていないのである。あのままの手で色々なところを触るのだろうと考えると、どうも近づきたくはないと正直思ってしまうのだ。きれい好きというほどでもない私から見ても、あれだけはどうも認めがたい。だが、そんな他人のことまで気にしていては、世の中生きていくのは大変だろう。せめて自分が人を不快にさせることがないようにと、気を付けるくらいである。なお、女子トイレでの事情がどうであるかは、私のあずかり知らぬところである。

さて、手を洗うというのは、健康面や衛生面での目的が主なものであろう。たとえば、インフルエンザやノロなどの伝染性の病気が流行ったり、空気が乾燥したりする季節になると、至る所で手洗いとうがいが奨励されたりするものだ。それこそ、トイレの中にも理想的な手の洗い方が印刷された紙が貼り出されるほどだ。しかし、それでも手を洗わない人は手を洗わないのであるが。

ところで、手を洗うということに、それ以上の意味を持つこともあったようだ。イエスの時代、律法学者や宗教家にとっては、手を洗うということは、自らを清めるということが主たる目的であったらしい。彼らにとって清めるということは、単に汚れや雑菌を取り除くということではなく、もっと内面的なものであり、すなわち神の前に出るに相応しい清さを得るためのものであったようだ。おそらくは、旧約聖書に書かれている「その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」(出エジプト記30章21節)から、そのような考えの根底にあるのだろう。

ある時、そのような宗教家がイエスを食事に招いたそうだ。そのときのことがルカの福音にはこのように書かれている。「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。」(ルカの福音書11章38節)

その様子を見て、イエスはこのように言った。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。……忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。」(同39、42節)なお、この後に「忌まわしいものだ。パリサイ人。」と二度も繰り返し言っている。

その場にいた律法学者はこう言い返している。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」(同45節)

さらに、イエスは彼らのことを忌まわしいと、この後に三回も繰り返しているから、イエスの彼らに対する敵意というか憎しみが、どれほどのものであったかを想像するのは容易であろう。これまでにもたとえ話などを通じて、人々に注意を促すことはあっただろうが、ここまで直接的に人々を批判したのは、おそらく今回が初めてかもしれない。いや、批判というには生易しいくらいだ。口論というか、口喧嘩というか、今の言い方をするならば、ぶち切れてると言った方がよいかもしれない。

なぜ、これほどまでにイエスは腹を立てていたのだろうか。手を洗わなかったことを指摘されたからだろうか。いや、さすがにそれは違うだろう。むしろ、律法学者や宗教家たちが手を洗うという行為を重要視していたことに不満を覚えたのだろう。イエスにしてみれば、手を洗おうが洗うまいが、さして大事なことではなかったに違いない。それこそ、彼にとって手を洗うというのは、今日の私たちが考える程度のものだったのかもしれない。手を洗うという行為が、人の内面を清くするわけがない、と。

彼らは人々の手本となり、指導する立場にありながら、人々を憐れむこともなく、助けるでもなく、それどころか神の御名を借りての、自らに栄光を帰すような行動や言動、それらに対して、イエスは怒りを覚えられたのである。