ささやく言葉

最近、仕事で厚木方面に行くことが多い。私の住まいからは遠くて辟易している。同じ遠いにしても都内であれば、何かと見るものもあったりで気が紛れそうなものであるが、なんと言っても厚木である。厚木に住んでいる方々には申し訳ないが、率直な私の感想である。駅前は栄えているが、そんな駅から仕事場まで20分ほど歩かねばならない。近所にコンビニすらない。窓の外を見れば、山と田んぼとばかりである。なので適当に理由を見つけては、行かないで済むようにしようと考えてはいるのだが、そんなにうまく物事が運ぶなんてことは、残念ながらまずない。

おまけに電車の乗り換えが多くて大変である。しかも横浜駅では東口の京急線から西口の相鉄線まで歩かなければならない。運動不足の解消にはなるのかもしれないが、それにしたって朝にしても夜にしても、人混みの中を歩いていくというのは、どうも慌ただしくて好きになれない。それでも唯一の利点と言えば、朝の相鉄線は、皆が横浜方面に向かって来るのとは反対に、始発の横浜から終点の海老名まで乗るので、確実に座ることができることくらいだろうか。本を読むか、居眠りをするか、一日のうちで誰にも邪魔されない貴重な時間である。

ところで先日のことだが、いつものように座って目を閉じて居眠りでもしようかと考えていたら、隣に座っていた若い女性もうとうとと始めたのである。まぁ、車両に乗っている人たちの半分くらいは同じような感じなので、いつも通りと言えばいつも通りである。ところがしばらくすると、その人の頭がだんだんに傾いてきて、私にもたれかかってきた。これがおっさんやおばさんであれば、うっとうしくなってわざと体を動かして遠慮なく相手の眠りを妨げてやるのだが……相手は若い女性である。正直、悪い気はしない。しかし、駅で電車が停まったりするたびに、我に返るのか体勢を直すのである。でも、眠気には勝てないから、またすぐに眠ってしまい、またもや私にもたれてくる。そんなことを繰り返す彼女の気配を感じると、なんとなく哀れに思えてきて、別に取って食おうなどとは考えていないから、そのまま眠っていても構わないですよと言いたくなってくるのだ。もちろん、そんな思いをひとりささやくことはおろか、口に出すことなどできないのだが。せめて心の中で呟くくらいである。

さて私のことはどうでもよい。イエス・キリストに話しを戻そう。律法学者や宗教家たちとやり合った後、互いの足を踏みそうなほど大勢の人々が彼のもとに集まってきたと、ルカは書いている。イエスは弟子たちにこう言ったそうだ。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」(ルカの福音書12章1~3節)

パリサイ人の偽善に気を付けるようにとは、どういうことか。彼らの偽善がイエスや弟子たちを傷つけることになるとは、どちらかと言えば考えにくい。であるとすれば、パリサイ人のように偽善を行う者にならないようにという、言わば戒めに近いものなのかもしれない。パン種とはパンを膨らませるためのものである。すなわち彼らが偽善によってその地位を確立したと、イエスは彼らを批判しつつも、そのようにならないようにと弟子たちに教えているのかもしれない。

パン種がパンを大きく膨らませるように、小さなものが大きく膨らんでしまうということは、人が口にする言葉についても言えることなのだろう。誰も見ていないだろう、耳を傾ける人などいないだろうと思って言ったことが、実は誰かに聞かれて話が広まったとか、誰の耳にも入ることがないようにと、秘やかにささやいたことが、いつの間にやら誰もが知るところになったとか、何かを口に出すのであれば、そのような結果になることを覚悟しなければならないということだろうか。イエス・キリストの時代のことを想像するのは難しいかもしれないが、インターネットが当然のものとなり、誰もがメールやSNSをやるようになった今の時代であれば「ささやいたことが言い広められる」ということは、あながちあり得ないことでもないだろう。

偽善の言葉を呟いて、それが人々に知れ渡ることになるよりは、真実の言葉をささやいて、それが広まることの方が望ましい結果を生むだろう。どんな小さな声で発言しようとも、その内容には気を付けたいものである。ともあれ、見知らぬ女性にささやきかけてしまうと、パン種がパンを膨らませるどころの騒ぎでは済まないだろうから、要注意である。