赦されない罪

しばらく前のことだが、職場でこんなことがあった。ちょうど昼食時のことである。いつもだいたい決まったメンバーで食事をするのだが、たまたまその日の席順は、入社18年目でいわゆる管理職相当の私がいて、隣には私の現場に異動になったばかりの、入社2年目の若者であった。私のメニューは、家から持ってきたおにぎりとコンビニで買ったサラダ、そして隣の彼のメニューは同じくコンビニで買ったロースカツ弁当……そうだろ、私よりも頭ひとつ分も背が高いのだから、それくらい食べないともたないだろう、と考えていたら、何か冷たいものが降ってきた。空調の配管でも壊れたのかと天井を見上げたが、何も問題はなさそうである。そのままサラダでも食べようかと思ったら、シャツや腕も何やら冷たい。そして、ソースの匂いがする。そう、なぜか顔や腕やシャツにソースが付いているのだ。いや、サラダにソースはないよな、と不思議に思って隣に目をやると、手に開封に失敗したソースのパッケージを持った2年目の彼が固まっていた。きっと漫画が現実になったかのような一場面だったに違いない。

誰しもが一度くらいはやったことあるだろう。醤油だったり、ドレッシングだったり、ソースだったり、ケチャップだったり、はたまたラーメンのスープの素だったりと、色々な意味でぶちまけたくないものに限って開けるのに失敗するのはなぜだろうか。さて、ロースカツ弁当の彼はどうなったか。仕事で失敗したなら、事件事故報告書でも書いてもらうところだが、ソースの開封に失敗したなら、もはや笑ってやり過ごすしかないだろう。あとは、ロースカツ弁当禁止令くらいである。まぁ、どちらかと言えば寛大な措置であろうか。

私のことはさておき、やはりこの世界で最も寛容なのは誰かと言えば、やはり神であろう。その寛大さがどれほどのものであるかと言えば、ひとり子イエス・キリストをこの世に遣わして、過去、現在、そして未来を通じて、この地上に生きたすべての人々、またこれから生まれてくる人々のために、その罪ゆえに受けて然るべき罰を人々に代わって受けられたことだった。信仰がある者であれば誰も異論を唱えることはないだろう。なぜなら、これを信じて信仰を持つに至ったのだろうから。

それは聖書に書かれているこのことばからも明らかであろう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネの福音書3章16~17節)

それほど寛容であれば、神は人間のいかなる罪をも赦して下さるのではないか、とそう考えてしまう。だが実はそうではない。イエスはこのように言っている。「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」(ルカの福音書12章10節)

考えてみれば、不思議なことである。いや、不思議と言うよりは道理に合っていないようでもある。これではまるでイエスご自身が、神が彼をこの世に遣わした目的を否定しているかのようでさえある。それこそすべての人々のあらゆる罪を赦すために来られたお方が、赦されない罪があると言っているのだから、矛盾としていると言えば、そう言えないこともない。

イエスのことばを改めて考えてみよう。彼のことを悪く言う者があっても、それは赦されるという。イエスは神のひとり子であり、神ご自身でもあった。またこの地上における神の代理人でもあり、彼は神の御国の訪れを人々に教え伝えており、人々を備えさせていた。そのような彼の悪口を言うのは、神ご自身に対して悪口を言うのと同じであろう。だが、たとえそうであっても、自らの罪を認めて悔い改め、赦しを求めるのであれば、人は赦されるのである。そのような人々でさえも赦すために、イエスはこの世に来られたのだ。

だが、聖霊をけがす者はその限りでないという。聖霊についてイエスはこう言っている。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネの福音書14章26節)すなわち聖霊とは、この世界におけるイエスの代理人であり、彼が教えたことを人々に思いださせる存在なのである。であれば、もし聖霊を誹るということは、イエスの教えたことを否定することになるのだ。そしてイエスの語ったことを否定するということは、彼が与えようとした赦しを否定するということでもある。赦しを受け入れないことが、唯一赦されない罪なのである。それは神が人を否定したのではなく、人が神を拒んだということになるのだ。いかな神でも、これでは赦しようがないというものである。