世にある、世にあらぬ

“To be or not to be, that is the question.”とは、シェイクスピアの戯曲ハムレットの中で、おそらく最も知られているセリフだろう。私もハムレットを見たことはないし、その内容も大ざっぱにしか知らないが、なぜだかこのセリフだけは知っている。おそらく学校の授業か何かで聞いたことがあるのだろう。一般的には「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と和訳されていることが多いようだが、物語の流れをどのように捕らえるかで、様々な解釈があるらしい。ちなみにシェイクスピア全集を翻訳した坪内逍遥によると、このセリフは「世にある、世にあらぬ、それが疑問ぢゃ」となっているそうだ。なるほど、英語の使い方という観点からすれば、たしかに正しい訳とも言えよう。

ハムレットの抱えていた問題ほど真剣でもなければ深刻でもないが、おおよそ人というのは生活をしていれば、例えば、目玉焼きには醤油をかけるかソースをかけるか、電車では降りやすいようにドアのそばに陣取るか人の少ない奥の方に陣取るか、などのように日常の様々な場面においていかなる選択をするべきかと考えることがあるのではないか。かく言う私などは、床屋に行くべきか、行かないべきか、それが悩ましいという具合である。しばらく咳が治まらなかったので床屋に行くことができなかったわけだが、おかげで髪が伸び放題で見苦しいものだ。このまま床屋に行って、短くしてもらえばそれでさっぱりしそうなものだが、なんか中途半端に伸びてくると、せっかくだから伸ばしてみようかなどと思ってしまうのだ。さてどうしたものか、実に悩ましいものである。

さて、人は何だかんだと悩んでしまう生き物のようであるが、イエス・キリストは弟子たちにこのように言っている。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」(ルカの福音書12章22~23節)

それにしても、何を着ようかとか、何を食べようかとか、生きていれば誰もが気にすることであろう。もちろん、それは単なる選択の問題だけでもないだろう。もっと深く考えれば、どのようにして、そのような生活の糧を得るかなど、さらなる問題が出てくるに違いない。だが、そのようなことで心配をする必要はないとイエスは言っている。なぜなら、そのようなことよりも大切なものがあるからだ。それは人のいのちであり、からだであると言っている。すなわち人そのものが、その人の生活のなかにある様々な物事よりも大事であるということなのだろう。

イエスは弟子たちに教える前に、集まっていた群衆にこのように語っていた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(同15節)またそのたとえの中で、ひとりの裕福な男が「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と浮かれている時に、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」と神が彼の命を奪ったとしたら、その後に残された財産は一体誰のものになるのかと、イエスは人々に問いかけた。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(同21節)どれほど富を積み上げようとも、最期を迎えた時には、それら全てを手放さなければならないのである。好むと好まざるとに関わらず、それこそ一分の選択の余地すらない。

つまり、心配するだけ無駄ということなのだろう。乱暴な言い方かもしれないが、明日を憂いて、明日の為に蓄えておこうとしても、もしかしたら明日が来ないかも知れないということだ。もちろん、今さえ良ければそれで十分というような、刹那的な生き方を勧めているわけでもない。どうすればよいのか、イエスはこう教えている。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」(同29~31節)

世にある限り心配は常についてまわるだろうし、世にあらぬでは時既に遅しであろう。だが、必要なものは神が備えてくださることを受け入れ、神に目を向け、神の国を求めれば、いずれの不安や悩みも持たなくて済むのである。まさしく”To believe or not to belive, that is no question.”というべきだろう。