パラダイス

楽園、もしくはパラダイスと聞いたときに、まず私の頭に浮かんだのは「スイーツパラダイス」である。スイーツとパスタなどの軽食の食べ放題のお店である。とは言っても、さすがに甘いものが好きな私でもスイーツばかり出されると、ちょっと困ってしまう。甘いものばかりだと、満腹になる前に味覚が麻痺してしまいそうだ。やはり腹が減っているときには、もっとちゃんとしたものを食べたいものだ。そうだな、スイーツではなく肉のパラダイスでもあれば文句なしだ。すき焼き、しゃぶしゃぶ、焼き肉、ソーセージにベーコン、ハンバーグにメンチカツ、唐揚げに焼き鳥……あぁ!好きな肉料理を心いくまで食べることができるのであれば、それこそパラダイスであることに間違いなし。そして、私の腹回りは贅肉のパラダイスになってしまうこと必至である。

それにしても、楽園とかパラダイスなどと言うと、俗的なイメージが先走ってしまいそうである。しかしながら、聖書で楽園と言えば、神が天地を創造されたとき、アダムとエバを住まわせたエデンの園のことを示す。(ちなみに、パラダイスの語源はペルシア語の庭であり、ギリシア語訳された旧約聖書でも使われている。)そしてエデンとは単なる庭というだけではなく、神が創造された、神の庭でもあった。後から追放されることにはなったが、一度は人もそこに住まうことが許されており、そこに実るあらゆる果実を食すこともできたのである。楽園と言えば、人の欲望を満たすことのできる場所と考えてしまいがちだが、本来の意味に遡るのであれば、パラダイスとは神の園なのである。

確かに、旧約聖書にはこのように書かれている。「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(イザヤ書51章3節)もし人の欲することが神と共に過ごすことであれば、その人にとって楽園とは、まさしく神の園であろう。残念ながら、しゃしゃぶ食べ放題がパラダイスに思える私には、とてもじゃないが到達し得ない境地であるが。

それにしても、楽園とか天国とか、天の御国とか神の御国とか、聖書にはあれこれ出てくるのだが、果たしてどれも同じものを指し示しているのだろうかと思うことがある。私のような者がほんの数分頭をひねったところで、答えが出てくるようなものではないだろう。とは言え、何となくの直感で答えるのであれば、場所という観点では別のところを示している一方、性質という観点では同じところを示しているように思われる。

聖書にはこう書かれている。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(ヨハネの黙示録21章1~2節)新しい天があり、新しい地がある。また新しいエルサレムがあるという。それぞれが近い場所であろうことは想像できるが、同じ場所ではなさそうだ。確かなことは誰にも分からないが、少なくとも白い服を着て、雲の上でふわふわしているだけの退屈な場所ではなさそうである。肉体の復活を信じるのであれば、住む家があり、もしかしたら仕事もあるかもしれない。「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(同4節)だけで、それ以外はさほど今と違いがないのかもしれない。もちろん勝手な想像でしかないが。

ともあれ、場所が同じなのか、それとも違うのか、いくらでも議論の余地はあるだろうが、神が王であり、神が共におられるという原理に違いはない。

神の国の訪れを人々に伝えるために来られたイエス・キリストは、それについてこう教えている。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。……神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」 (ルカの福音書13章18~21節)

つまり神の国とは、大きくなるということである。先にも書いたが、神の国がどこにあるのか、確実なことは分からない。だが、人が神を受け入れ、心のうちに神を迎えるのであれば、神の国はその人の心の中にあるとも言えよう。神の国はやがてくる新しい天地と神の都でもあろうが、今の時代、この場所においても、信仰を持つ一人ひとりのうちにも存在しているのだ。もし人が神を覚えて、信仰を守っているのであれば、それは周りの人々にも伝わるということなのかもしれない。