門が閉まる前に

通勤途中で目にする日常……電車に乗って発車するのを待っていると、ドアが閉まる直前に駆け込んでくる人たちがいる。駅の階段をホームに向かって上っていると、電車が着いたと知るや、急いで駆けていく人たちがいる。そんなに急いでどうしようというのか。乗り遅れたら、次の電車で行けばいいじゃないとか、私なら考えてしまうのだが、どうやらそう考えない人たちも結構いるのだ。何と言うか、いい歳をした大人が公衆の面前で慌てて走っている姿というのは、みっともないものであると私は思っている。誰かに追われているとか、誰かを追っているとかならまだ分かるが、さすがにそんなシチュエーションは普通ではないことであろう。要するに時間に余裕を持って動いていれば、電車を一本逃したところで、何も困ることはない。言い換えれば、慌てているということは、ぎりぎりの時間で行動しているということで、それだけ計画性の甘さが露呈していることに他ならない。そんな姿を晒すくらいであれば、潔く遅刻する方が私としてはまだ許せる。もっとも、私が走る姿を見たとしても、人は何とも思わないだろうけど。

とは言え、何事においても例外というのはある。この場合、それは終電だ。終電を逃しては、家に帰り着くことができない。終電を目指して猛ダッシュをする大勢の人たちを、みっともないと言ってしまうのは、ちょっと酷かもしれない。何せ次がないのだから、待つという選択肢がない。もし待つなら、翌朝まで待たなければならない。だが、それでも大丈夫という人はほとんどいないであろう。終電に間に合うかどうか、運命の岐路、とまでは行かなくとも、本人の気持ちとしてはそれに等しいものがあろう。では、私ならどうするかと言えば、終電に間に合うかの瀬戸際だと知れば、おとなしく会社で夜を明かすだろう。

さて、ルカの福音書に話しを戻そう。イエス・キリストは奇跡を行ったり、人々の質問に答えたりしつつ「町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続け」(ルカの福音書13章22節)ていた。あるとき、ひとりの人がやってきて、彼にこう聞いたという。「主よ。救われる者は少ないのですか。」(同23節)考えてもみれば、面白い質問である。どのような人が救われるのですかとか、人はどうすれば救われるのですか、という内容であれば、何となくその質問の意図を知ることもできようが、何人くらい救われるのですか、と聞いたのはこの人が最初だったのではないだろうか。一体全体、この人はどのような思いでこれを聞いたのだろうか。自分が数のうちに入っているかどうかの確率でも知りたかったのか。

ところが、イエスの答えはこうであった。「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。」(同24~25節)

滅びに至る道は広く門は大きい、いのちに至る道は狭く門は小さい(マタイの福音書7章13~14節)とも言う。救われる者が多いか少ないかは、それは人の知るところではないだろう。ここで重要になってくるのは、いのちへと続く門が狭いというだけではなく、その門が永遠に開いているわけではないということだ。時が来れば、それは内側から閉められてしまい、中に入ることができなくなってしまうのだ。

「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました」入り損なった人々は外から必死になって声を上げるものの、門の内側からは「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい」という声が答えるだけだ。不幸にして閉め出されてしまった人々はどのような人々だったのか。イエスは続けて言っている。「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。」(同28節)預言者たちと比べているということは、おそらく律法学者や宗教家について話しているのだろう。彼らは自らが正しいと信じて疑うことがなく、自分たちが築いた伝統や知識ばかりを頼っていたのだ。そして神のひとり子として、この世界に遣わされたイエスのことばを聞くでもなく、それどころかことあるごとに彼を非難し、敵視さえしていたのだ。門の外で迫りくる永遠の火による刑罰の恐ろしさに、彼らが泣き叫ぶとき、門の中では東西南北あらゆる地方から集まった人々が預言者と共に神の食卓についているという。

神の国への門が開いている今であれば、まだ間に合う。しかし終電とは違い、アナウンスもなければ時刻表もないから、その門が閉じられてしまうのがいつのことか、誰も知らない。その時になってから慌てて走っても間に合わない。そうなる前に、門に入り、門の内側に留まっているよう、心掛けたいものである。