迷いのある者

義人はいない、ひとりもいない。聖書のどこだったか、そのようなことが書いてあったと思う。そうだ、ローマ人への手紙だった。正しくはこうだ。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10~12節)たしかに、私もこのことばには納得である。いや、誰かのことを思い浮かべそう思うのではなく、自分自身を顧みたときにそう感じるのだ。私は自分のことを正しい人間だとは思わない。それどころか、キリストを救い主として受け入れて二十数年経とうかというのに、まだまだこの世界の様々なことに心を奪われてしまう。いや、むしろ信仰を持った最初の頃の方が、今よりもマジメだったかもしれない。

もし理想を追求するのであれば、ここで悔い改めて、真理を得て、神を求め、善を行うようになるべきなのだろう。だが、実際はそうではない。現実は、悔い改めるどころか、神を求めず、自分の願いをどうすれば実現することができるかと考え、善を行うと言っても、それは独善的な考えでしかなかったりするのだ。そこで気づいて後悔するのなら、まだ許してもらえるのかもしれないが、ふん、だからどうした、生まれついての罪人なんだから仕方ないじゃないか、と開き直ってしまうのだから、どうにもタチが悪い。

この世界を去った後、神の御国において、日々神と共に歩み、信仰の何たるかを知る、そういうことであるのなら分かるのだが、この雑念に満ちた世の中において、それを実現させるとは、私の視点から見れば常識を越えているようなものである。もちろん、神の国が今ここにあるのであれば、まさにこの瞬間からそうすることも不可能ではないのだろうが、どうも私には……申し訳ないが、無理なことに思えてならない。

さて、ルカの福音書にはこのようなことが記されている。「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられた」(ルカの福音書14章1節)なぜイエスは彼のことを快く思っていない律法学者の、それも彼らの中でも指導者とされているような人物の家に行ったのだろうか。果たして律法学者がイエスを招待したのであろうか、それともイエスが自らの意志で出掛けて行ったのだろうか。何とも書いていないから正解は分からないが、律法学者にしてみれば、またとないチャンスと思ったに違いない。イエスの教えることを学ぶチャンスか、違うだろう。イエスと和解するチャンスか、いや、それも違うだろう。「みんながじっとイエスを見つめていた。」(同1節)とあるから、彼が何か問題を起さないか、と獲物を前にした獣のように、彼を陥れようと狙っていたのだろう。律法学者たちが計らったのか、それとも単なる偶然なのか「そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。」(同2節)ここまで書いてあれば、大方想像は付くだろう。もしイエスがこの人の病気を治すのであれば、安息日の決まりを守らなかったと、律法学者らは彼を責めるに違いない。そして彼らはこれまでのことから、イエスが必ずやこの人を癒やすだろうと確信していたはずだ。

もちろんイエスは彼らの企みなど、とうに気付いていた。イエスは彼らにこう聞いた。「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」(同3節)しかし、彼らは何も答えることができなかった。もし正しいと答えれば、イエスのすることを認めることになり、それは彼らの思惑とは正反対のものとなるだろう。しかし、良くないと答えれば、その場に居合わせた他の人々から、薄情だと陰口を叩かれることになるだろう。いずれにしても、彼らにとっては望ましくない結果にしかならない。

さてイエスはその人を癒やすと、律法学者たちにこう言った。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」(同5節)やはり、彼らはイエスに対して何も言い返すことができなかった。

義人はいない、それが現実である。しかしながら、律法学者たちは自らを正しい者と考えていた。それは、彼らにとって、教えられてきた伝統や習慣を守ること、それが彼らの誇りであり正義であったからだ。彼らは人々から尊敬され、社会的にも認められていたから、なおさらその思いが強くなる一方だったのだろう。だが、キリストの前にあっては、迷いのある無益な者でしかなかったのだ。

では、彼らが完全に悪人であったかというと、そうでもないだろう。おそらく彼らは心の内ではイエスの問いに対する正しい答えを知っていただろう。ただ、それは彼ら自身の価値や意義と矛盾するものだった。自らの欲するところを行うか、それとも神の前に正しいことを行うか、それが彼らの迷いだったのかもしれない。イエスは彼らにそう考えるきっかけを与えたかったのだろうか。人の心の内には多くの迷いがあるかもしれないが、どのような迷いであっても神に答えを求めることができよう。