宴に招かれ

久しぶりにペンを取る……なんてちょっとばかり知的なフリをして、そんな言葉を言ってみたいところであるが、残念ながら私の場合はちょっと違うか。ともあれ改めて考えてみれば、最後にこれを書いたのは去年の夏の終わりの頃だったような。ところがどうであろうか、気づいてみたら、まだ朝晩は寒さを残すものの日差しに暖かさを感じられる陽気になっているではないか。半年近くも何も書かないで過ごしてきたわけだ。いや、何も書かなかったというのは言い過ぎかもしれない。もちろん事務的なものや実務的なものは多く書いてきたわけだが、自分の考えだけをネタにして、ゼロから書いていくという、創造的なものは原稿用紙一枚ほども書いていなかったということである。

それにしても、久しぶりにこのように書いていると、ふと妙な感覚に捕らわれてしまう。うまくは言えないが、何やら敗北感とでもいうような、誰かに、もしくは何かに負けたような気持になってしまうのだ。もちろん、人と争っているわけでも、誰かと競っているわけでもない。そんなのは明らかである。そうは言っても、遅れをとったように感じられるのだ。おそらくであるが、休むことなく創造的なことを書き続けたであろう、実在しないもうひとりの自分に対して引け目を感じているのかもしれない。そのもう一人の自分は、現実の私よりも、六か月の間休まずに書き続けたことによって何かを得ているに違いない、それが何かは現実の私には分からないが。もちろん、私だって単に面倒くさくなって書かなかったわけではない。仕事が忙しくて書けなかっただけだ。しかし、結果として何もしなかった私よりは、何かをした私のほうが、少なくとも何らかの達成感は得ていることだろう。

さほど人に誇ることができるような取り柄もないし、信仰的にも胸を張って堂々としていられるような自分ではない。そのような私にとって、わずかな時間であっても、聖書を読み、神のことに考えを巡らし、その思うところを書き記していくことだけが、キリストを信じる者としての自身を意識できる、数少ない具体的な行いの一つなのである。これを書くことによって、言うなれば信仰的な正気を保つことができるようなものであろうか。言い換えれば、これを書くことをやめてしまえば、信仰者としての私自身のあり方そのものが、不確かなものになってしまいそうである。

さて、私のことはこれくらいにして、再び聖書に目を向けたいと思う。半年空けてしまうと、どこまで見たか忘れてしまうが、おそらくルカの福音書の中盤くらい、たしかイエスがパリサイ人の指導者の家で食事をしていた時のことだったろうか。イエスはひとつのたとえ話をされた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。ところが、みな同じように断わり始めた。」(ルカの福音書14章16~18節)たとえ話に登場する招待客の断りの理由は、このようなものであった。一人目は「畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。」(同18節)、二人目は「五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。」(同19節)、そして三人目は「結婚したので、行くことができません。」(同20節)彼らの理由は正当なものであったかといえば、そうでもないだろう。どちらかと言えば、単なる言い訳のようなものである。彼らは招かれていた人々であり、前もって宴会が行われることを知っていたはずである。にも関わらず、それっぽい理由をつけて出席することを断ったのだ。畑の見学だったら、宴会の後に行けばよいだろう。牛を試したいのなら、宴会の翌日でも構わないだろう。結婚したから……いや、妻がそんなすぐにいなくなってしまうわけでもあるまい。それどころか、妻は生涯通じて身近にいるはずだ。どれも宴会を断るような、緊急性を要する事情ではない。自分たちの都合を優先して、招待をキャンセルしただけである。当然ながら断られた方は、腹を立てるだろう。彼らのために準備をしたのに、それが軽く見られてしまったのだから。「おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』……『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。』」(同21、23節)

このたとえの意味するところは後々見えてくるだろう。私などは街道を歩いていて、たまたま誘われた者のひとりくらいだ。それではせっかくなのでと、宴会に参加したひとりかもしれない。そこまでは良いのだが、問題はその先である。「ちょっと用事を思い出したので、ここで帰らせてもらいます」などと言っては、場がしらけてしまうだろうし、招いた方もがっかりさせられるだろう。何より、中座する自分自身が最後まで楽しめずに、一番損をすることにもなる。神に招かれたのであれば、神のところに留まるのが最善なのである。