覚悟を決めて

昭和四十七年から今日に至るまでずっと富岡に住んでいる―まぁ、途中で数年ほどアメリカに住んでいたのを除くとして―私にとっては、電車と言えばやはり京急線が一番身近な存在である。最寄に他の路線がないので、車を使わないのであれば、出掛けるときは京急以外の選択肢はない。JRと比べて滅多なことでは止まらないし、かなり遅い時間まで走っているので、ありがたいことにこれといって不便に感じたことがない。昔は赤い車体に白い線がお馴染みであったが、今は青色だったり、黄色だったり、未塗装のステンレス合金のままだったりと、バリエーションが豊富になっている。

電車の運行の種類も増えたもので、夜の下りしか運用されていなかったウィング号が、今では朝の上りでも運用されるようになった。朝は時間の都合もあって、ウィング号に乗るような機会はないのだが、都内での仕事があった帰りには、京急品川駅3番線でウィング号が発車待ちで停まっているのを見ると、つい乗ってみようかと考えてしまう。たったの三百円で上大岡まで座って帰れるのであるから、それは便利だ。だが、私は滅多なことでは乗らないのである。いや、チケット代の三百円を惜しんでいるわけではない。いくらけちな私でも、そこまでどけちではない。実は、品川から上大岡まで停まらないというウィング号の一番の売りが、私が乗らない一番の理由なのである。途中停車しないということは、つまり途中でトイレに行けないということだ。東海道線なんかはトイレがあるから安心なのだが、京急ではその安心がない。京急にしてみれば、そんな長距離を走るわけではないのだから、わざわざ設置しようなどとは思わないだろう。いずれにせよ乗客が途中下車をすれば済む話だと言われたら、それはそれで納得できるのだが。

ウィング号に乗ろうという覚悟を決めることができないのである。事前にトイレに行って、空っぽにしておけば問題ないのだろうが、そんなうまい具合に物事は運ばないというのもまた現実なのである。

それはさておき、今回も聖書のことばに目を向けてみよう。

イエス・キリストが大勢の人々と一緒にいたときに、彼らに向けてこう言ったそうだ。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカの福音書14章26~27節)その場にいた人々は、何を思ってイエスに従っていたのだろうか。その答えになりそうなものはここには書かれていない。しかし、イエスは人々の心のうちを察していたのだろう。多くの人々は、イエスの語ることやなされることに心を動かされて、ここまで彼に従ってきたのだろう。だが、それだけではイエスの弟子となることはできないというのだ。本当に彼に従い、弟子になることを願うのであれば、自らの家族や自分自身を捨てるくらいの覚悟を持たねばならないのだ。そればかりか、自らの十字架を負いつつイエスに従うことも求められているのだ。(十字架を負う、ということが何を意味するのか、人々はまだ分かっていなかったかもしれないが。)はたして、どれほどの人々がイエスのこのことばを聞いて、それでもまだ彼に従おうと思っただろうか。私だったら、気が萎えてしまうに違いない。なんといっても、やはり自分が大事であることに変わりない。どうしても自分のいのちを惜しんでしまうはずだ。

さらにイエスはこう言っている。「基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。」(同29~30節)何かを始めても、それを成し遂げなければ、はたしてその人の働きや、その人によって作り出されたものに何の価値があろうか。ラーメン屋に行ってチャーシューメンを頼んで、茹でた麺だけがどんぶりに入れられて出されたら、誰だって怒るだろう。実はスープを切らしていた、チャーシューの材料の豚肉を買う予算がなかった、なんて言われてもこっちの知ったこっちゃない。メニューに出す前に全部用意しろってことになる。価値がないどころか、信用を落とすことにもなるだろう。

人がどのように信仰を持つに至ったのか、人それぞれだろう。しかし、信仰は貫いてこそ意義があるのだ。そのためには、それなりの覚悟と先々を見通す知恵が必要なのかもしれない。たとえきっかけは一時の感情であったとしても、それだけでは信仰を持ち続けることは難しい。むしろ永続的な意思をもって、守っていくものなのだろう。「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。」(同34~35節)