すべてにおいて

聖書には、このように書かれている。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5章18節)すべてのことについて感謝しなさい。まぁ、それが良いことであろうことくらいは分かっている。しかしながらそれを実践するのは、どうも難しそうに思えてならない。例えば、である。終電がなくなるまで仕事をして、家に帰ることも出来ずに、ネットカフェで夜を過ごして、翌朝また会社に出掛けて行く。ひと月の間に何度かそんなことをしている状況を感謝に思えるかというと、いや、私には無理だ。屋根の下で夜を過ごせることは感謝してもよいのかもしれないが、家があるのに家に帰れないというのは、恨めしく感じることはあっても、感謝には思えない。

ところがここで言っている「すべての事について、感謝しなさい」ということばの意味は、私が先に書いたようにとらえるべきではないだろう。誰しも嫌な思いをすることがあれば、辛い目に遭うこともある。それらのことを、いちいちありがたがっていたら、おそらく性格の歪んだ人間になってしまうだろう。まさか神がそのようなことを人々に望んでいるとは思えない。参考までに同じ箇所を英語の聖書で読むと、このように書いてある。”In every thing give thanks”(KJV)または”give thanks in all circumstances”(NIV)日本語で言うのであれば、すべてにおいて感謝しなさい、もしくは、あらゆる状況において感謝しなさい、という意味になろう。

そうは言っても、何かを意識して感謝することは、どれほどあるだろうか。確かに日々生活をしている中で、多くの人々と接する機会があるだろう。これは私が自分自身に課したルールに近いものであるが、人に何かをしてもらったらできる限り「ありがとう」と言葉に表すようにしている。それが家族であれ、職場の人であれ、コンビニやラーメン屋の店員であれ、エレベータでたまたま一緒に乗り合わせた見ず知らずの人であれ、何かをしてもらったらお礼を伝えるようにしている。相手にしてみれば、ただ与えられた仕事をしているだけかもしれないし、特にその行動に深い理由もないのかもしれないが、そうだとしてもその行為が私に向けられたものであれば、感謝をしないと相手に申し訳なく思うのである。相手のしたことに何らかの対価を払ったとしてもである。

私のために何かをしてくれる人に感謝をするように、私のために何かをしてくれる神にも感謝をするのを忘れてはなるまい。たしかに私は模範的な信仰者ではないだろう。聖書を読むこともなければ、祈ることもなく何日か過ごすこともある。日曜の朝、教会に行くことよりも家で寝ていたいと思うのはいつものことだ。神に疑問を抱くこともあれば、不満を覚えることだってある。神を愛するという感覚が何であるかも、今もって分からない。しかし神のなさることへの感謝だけは忘れないようにしている。

もちろん、神が何か私のために大きな何かをしてくださったというわけではない。朝を迎え、そして夜になり、また朝を迎える。朝になれば仕事に行って、夜になったら家に帰ってと、どちらかと言えば単調な毎日である。変化と言えば、終電を逃して夜をネットカフェで過ごしたり、二晩目は家に帰るだけの気力も体力もなくホテルに泊まったり、それくらいである。出来事だけでみれば、感謝に値するようなものはむしろ少ない。というか、残念なことばかりだ。

しかし何はともあれ、神は私を生かしてくださっているのである。毎日当然のことのように、朝を迎えることができることを感謝したいところだ。たとえ朝を迎えたその後は、楽なことよりも、苦労することやストレスに感じたりすることの方が多かったとしてもだ。なぜなら生きていれば、その分だけ希望や期待を持つこともできるのだから。どんな状況であっても、先々のことを神に願い求めることができるのは、これまたもう一つの感謝に思うことである。