天にある喜び

移動や出張などで外で食事をするとき、私がよく選ぶのは、パスタや中華料理、それにタイ料理である。どれもあまり家で食べることができないからだ。そうでなければカレーか唐揚げだったりする。これは家でも食べることができるが、単に私の好きなものであり、色々と食べ比べてみたいからでもある。

そんなこんなで、先日も昼食を何にしようかと電車に揺られつつ考えていたのだが、なんとなく心はスパゲティに傾いていたので、パスタ屋に入ってみた。メニューを眺めつつ、あれやこれやと考えた。カルボナーラも食べたいが、カロリーが高過ぎそうだ……ペペロンチーノも捨てがたいけど、これから打ち合わせだというのにニンニクのにおいをさせるのも申し訳ない……オーソドックスにミートソースも良いかもしれない、が、ワイシャツにトマトソースがはねると染みになってしまうので、これも平日の昼間に食べるのはちょっとためらわれる。ということで最終的に落ち着いたのは、海老とモッツァレラのトマトクリーム。絶品というほどではないにしても、優雅なディナーというわけでもなく仕事の合間の昼食としてなら、まずまず納得できる味と量であった。だが、どうも何か物足りない。腹八分目ということを考えたら満足なはずではあるが、満足感が得られないのである。店を出て歩きつつ、中華屋の前を通り過ぎるとき、やはり中華料理にするべきだったかと、ちょっとばかり後悔をするも、食べ終わってからではすでに手遅れである。

パスタが食べたいからパスタを食べたのだが、なぜ充足感を得られなかったのだろうか。やはり炭水化物がメインだと、食べた気になれないのだろうか。それとも濃い味、しっかりした味付けでないと満足しないのだろうか。気を付けないと塩分取り過ぎになってしまうが。それとも食べるものが一種類だけだと変化がないから、物足りないのだろうか。中華屋で定食を頼めば、ごはんに中華スープ、ザーサイに小皿に乗った春巻きか焼売、それにメインのおかず、デザートには安っぽいくらい味の薄い杏仁豆腐、それくらいは食べることができる。さらにこれだけあっても、ほとんどの場合パスタよりも安いときたもんだ。うーむ、色々な点において中華料理のが勝っているのでは。

さて、体の糧である食べ物の話を始めると腹が減ってしようがないので、心の糧である聖書に目を向けてみよう。イエスが人々と話す様子を見て、律法学者や宗教家たちは彼のことを、なぜ罪人と過ごすのかと陰で非難していた。そのような彼らにイエスはこう言われた。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」(ルカの福音書15章4~6節)

イエスが間違っていることを話しているのならまだしも、当然のことを言っているので、これについては反論のしようがなかったであろう。当時の人々にとっては、家畜は大切な財産であった。一匹でも失うことがあれば、それは彼らにとって大きな損失となったであろう。今の時代に置き換えて言うのであれば、財布をどこかで失くしてしまったようなものであろうか。ひとまず持ち歩かずに家に保管してあるカードや現金については何の心配もいらないが、落とした財布は必死になって探すだろうし、銀行やカード会社に連絡して口座を止めてもらうか何らかの対策を講じて、被害がさらに広がるのを防ぐに違いない。財布が見つかるまでは心配でたまらないだろうが、無事に見つけることさえできればひと安心だ。さすがに人を呼んでまで喜びを分かち合おうとは思わないだろうが。言うなれば、失くした財布が行方知れずになった羊であり、家にあるカードなどは安全が保証されている羊のようなものであろう。どちらも持ち主にとっては同じ価値があるものだが、それがどこにあるか、どのような状況にあるかで重要度が変わってくるのも納得できよう。

イエスは続けてこのように言っている。「それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(同7節)すなわち神にとっては、罪のある人だろうが、すでに罪を悔い改めた人だろうが、等しく大切な存在であるということだ。であればこそ、神のところからさまよい出ていった罪人が見いだされ、彼らがその過ちを悔い改めて再び神のところに帰ってくるのであれば、なおのことそれは神にとっては大きな喜びとなるのだ。イエスはそのような神の思いをもって、自らの身を罪人たちの中においたのだろう。

そしてすでに悔い改めた信仰者にとっての本当の満足とは、自らの望むものを追求するばかりではなく、天の喜びを願うことで得ることができるのかもしれない。自分ひとりで喜ぶよりは、神と一緒に喜びあえることがその人にとっての祝福ともなろう。