神のものはすべて

日本におけるクリスチャンの総数は人口の1パーセントであるという。単純に考えれば百人集まれば、そのうち一人はクリスチャンということになるが、私の感触では、百人集まったとしても、一人がクリスチャンである可能性はかなり低いのではないかと思う。はたして自分がクリスチャンであることを隠して生きているから、少なく見えてしまうのか。とはいえ、見た目だけでクリスチャンかどうかを判断するのは難しいだろう。私だって知らない人から見れば、クリスチャンかどうか分からないだろう。もちろん、人から聞かれたら、そうだと答えるが。

そんなわけだから、街の中で教会とは離れた場所でキリスト教っぽいものを見ると、いったいどこにクリスチャンが潜んでいるのかと不思議に思ってしまうこともある。たとえば先日も、食事をしようと雑居ビルの中にある店に行ってきたのだが、エレベーターの中に十字架が貼り付けてあったのを見つけてしまった。あれはあれでなかなかインパクトがある。なんせ接着剤でエレベーターのドアの上にところにしっかりと付けられていたのだから、さすがにクリスチャンの私の目から見ても、何やら異様な雰囲気であった。ほかにも、意外なところでクリスチャンミュージックを耳にすることもある。私の想像だが、音楽を流している人はそれと知らずにやっているのだろう。洋楽というだけで、あえてその歌詞までは気にしていないのかもしれない。たとえば、先日近所のイオンに買い物に行ったのだが、どこかで聞いたことのある歌が流れていた。日本語に訳すとこんな感じだ。「私を愛するために生き、私を救うために死なれ、私の罪を遠くに運び去るために葬られ、私を義とするためによみがえられた。いつの日か主は帰ってこられる。なんと栄光に満ちた日だろうか、なんと栄光に満ちた日だろうか。」疑う余地がないほどにクリスチャンの歌である。この曲が収録されたCDを私は持っているのだから、間違いない。英語圏の人がいたら、イオンはキリスト教系の店だと勘違いしてしまうに違いない。

私のような者でさえ、日々の生活の片隅に同じ信仰の一端を見つけると、何やら不思議と気持ちの高ぶりを感じるのである。なおのこと、この世の楽しみに惑わされ、罪にまみれたまま行方知れずとなっていた人を再び見つけ出すことができたとしたら、それは神にとってたいへんに喜ばしいことであろう。イエス・キリストはたとえ話のなかで、このように言っている。放蕩息子のたとえ話として知られている有名な箇所であるから、聖書を読んだことのある人であれば、誰でも知っているだろう。「息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」(ルカの福音書15章21~24節)

前半部分の99匹の羊と一匹の迷い出た羊のたとえからも分かるように、悔い改めた者を神どのように考えているか、知ることができよう。なのでここでは、少し視点を変えてみたいと思う。たとえはこのように続いている。「兄はおこって、……父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』」(同28~30節)

兄の怒りは当然であろう。嫉妬深いとか、心が狭いなどと彼を非難することはできまい。誰であろうと、このような扱いを受けては不服に感じるだろう。彼の立場から見れば、弟は無駄に時を過ごしてきたばかりか、誘惑に身を委ねて罪を負った挙げ句、無一文になって帰ってくるなり、父から叱責されるでもなく、最大級の歓迎を受けたのだ。不公平に思うのも無理からぬことだ。兄のこのような態度から、放蕩息子がユダヤ人の目から見た罪人を、兄が律法学者や宗教家を表しているとも言われている。

その解釈が正しいのかどうかはともかく、この話のなかで父は腹を立てている兄にこう言っている。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」(同31節)

父は、兄をないがしろにしたのでもなければ、祝福しなかったのでもない。むしろ現実には、兄は弟以上に恵まれていたのである。なぜなら父のものはすべて彼のものでもあったからだ。実際、弟はその一部を与えられたにすぎなかった。兄の過ちは、自分自身がどれだけ祝福されているかを気付かなかったことだろう。