わたしは、よみがえりです

今さら言うようなことでもないかもしれないし、もしかしたら前にも言ったことがあるかもしれない。でも、この時期になるといつも思うことがある。私はクリスマスよりもイースターの方が好きだ。ついでに言うと、イースターと書くと、どうも言葉の持つ重みというか、本来の意味が薄れてしまうようで、これもまたあまり好きになれない。というよりも、もしかしたら日本の場合に限定されることかもしれないが、イースターの意味も分からずに、ただ形骸化しただけの玉子やうさぎに象徴されるイベントのみを世の中が受け入れているように思えて、どうも気に入らない。だから私にしてみれば、復活祭と呼ぶ方がまだ好ましく思えるのである。もっとも、それではあまりに意味が直接的な気もするし、やはり世の中としては受け入れがたいのかもしれないが。

ともあれ、なぜ私はクリスマスよりも復活祭の方が好きなのか。それは、クリスマスに特有のどこか浮ついたかのような、にぎやかさというか騒がしさがないからだ。クリスマスプレゼント、クリスマスツリー、クリスマスパーティー等々クリスマスという言葉を頭にした言葉や、クリスマスを理由にした物事は数多くあるが、復活祭、もしくはイースターという言葉を頭にしたものは少ないし、それに関わる物も少ない方だろう。考えてもみれば、イエス・キリストがこの世に生まれた日も、多くの人々にとっては他の日と同じ、つまりいつもと変わらぬ日常だったに違いない。同じように、彼が墓場からよみがえられた日も、安息日ではあったが、やはり多くの人々にとっては他の安息日と何にも変わらぬ日であったろう。それを思うと、祭りの熱に浮かされたような空気の感じられないなかで過ごせる復活祭は、どこか私を安心させるのである。

しかしながら、それはあくまでも私の個人的な感想でしかない。どちらが好きとか、そう単純に考えてはならない。信仰者としての視点に立てば、クリスマス無くして復活祭はあり得ないし、逆もまた然りである。イエス・キリストが赤子となってこの地上に来られたのは、病の人を癒すとか悪い霊を追い出すなどの奇跡を行うこと、また人々に罪の悔い改めと神への復帰を諭し、神の御国を伝えるという、確かにそれらのことは、イエスが神のひとり子としての権威をあらわすためにも、また神のこの世界に生きる人々に対する慈しみと憐れみをあらわすうえでも、必要不可欠なことであったろう。だが、それだけが目的ではなかった。

イエス・キリストは自分自身を通して、神の意思を実現させるのだった。すなわち罪を負い罰せられるべき人々の身代わりとなって、彼は十字架につけられて死に、そして三日目によみがえられることで、神の力の前にあっては死でさえもその効力を失ってしまうということを示されたのだった。そうすることによって、キリストを通して人々が新しいいのちを得られるようにすること、それがキリストがクリスマスに生まれて、死んだ後によみがえらたことの目的なのである。

まだイエス・キリストが律法学者や宗教家たちに捕らえられる前のことであるが、兄弟に死なれた姉妹を訪れた時に、彼はそのうちの一人にこう言った。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネの福音書11章25~26節)

このことばが聖書に残されているということは、弟子たちも含めて、おそらくそこに集まっていた人々も耳にしたのだろう。だが、人々はまだイエスが言ったことの意味が分かっていなかったに違いない。イエスにこう言われた本人もこう答えるだけであった。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(同27節)イエスは、彼を信じる者は決して死ぬことがないと信じるかと聞いているのだから、それとはちょっと違う答えである。またもう一人の姉妹もイエスに「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(同32節)と恨みっぽいことを言っているかと思えば、また人々の中にも「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」(同37節)などと彼を侮るかのようなことを言う者がいたというではないか。

しかし、それも仕方がないであろう。まさか人々はこの後イエスの身に降りかかることを知らなかったのだから。「わたしは、よみがえりです。いのちです。」たとえ彼がこのように言ったとしても、まだ奇跡のひとつとして、死んだ者を生き返らせることができる、その程度にしか考えていなかったであろう。だが、それからさほど時を経ずして、このことばの通りになるのだ。

復活祭のこの日、イエス・キリストのよみがえりを覚えることは、すなわち彼を信じる一人ひとりに与えられた永遠のいのちを感謝してもよいだろう。