律法の価値

金は諸悪の根源などというが、元来、金は悪いものではないはずだ。絶海の孤島でひとりで生活するのでもなければ、金は必要なものである。厄介なのは、金は人を惑わすということであろう。最近は、何かと金銭をめぐるニュースが多い。つい先日の福岡の事件などは、その最たるものであろう。3億8千万円の強奪事件である。闇は深いというか、何かと胡散臭いこと尽くしの事件である。まず29歳の東京都の会社員が福岡まできて、現金でこれだけの金額を用意したというだけでも不思議である。それを一人で銀行から車まで運んでいたときに奪われたというからさらに謎は深まる。ちなみに1万円札の重さは約1グラムであるという。そうすると、3億8千万円は38キログラムになる。それをスーツケース二つに分けて運んでいたというから、ひとつあたり少なくとも20キログラムはあったに違いない。貴金属を買い付けのための資金だそうだが、どうやら個人取引の場合で、なおかつ貴金属を換金するのでもなければ、通常は現金での取引はないらしい。また大金を運ぶ時は、複数人での行動が基本であるという。彼を派遣した東京の会社は危機感がないのか、それとも何か現金で取引しなければいけない理由でもあったのか、はたまた数億円程度ならうっかり盗まれても痛くも痒くもないほどの資金力を持っているのか……考えれば考えるほどに謎は深まる。どうもここまでくると、陰謀論者でなくとも、あれやこれやと勘ぐってしまいたくなる。

その直後に、大金を所持した韓国籍の男性数人が福岡空港で身柄を拘束されたという。容疑者かと思いきや、調べてみるとこの男性らが犯人ではなかったそうだ。というのも、なんとびっくり、先の強盗事件の被害額を大幅に上回る7億円ほどの現金を所持していたからだそうだ。ということで、別の容疑で彼らは逮捕されたとのことだ。この二日間で、怪しげな金が10億円ちょっとも動いていたことになる。年末ジャンボ一等前後賞の賞金額をちょっと上回る、庶民の私からすれば、まずどうやっても一生拝むことのできない金額である。

さて、いつの時代でも、どこの場所でも、金に心を奪われてしまう人々は必ずいるものらしい。ルカはその福音書の中で律法学者たちについて、このように形容して記録を残している。「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(ルカの福音書16章14節)ちょうどイエスが、不正を働いた人のたとえを用いて「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(同13節)と教えた直後のことだった。

イエスの話を聞いて笑う律法学者たちに、イエスはこう言っている。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。」(同15~16節)

ルカの書いていることとイエス・キリストの言っていることを合わせて考えてみると、律法学者というのは、人から尊敬されることや、富を得ることに熱心だったようである。彼らは神の律法を重んじるといいながら、その心の中には神を敬う思いも、神に従順であろうとする気持ちもなかったことを、イエスは見抜いていたのだろう。そして、彼らが重んじている律法には、彼らが望むような効力は何もないと言いたかったのかもしれない。

バプテスマのヨハネの登場によって、彼らがそれまで人々に教えてきた律法も、また預言者の言葉も、それほど大事なものではなくなってしまったのである。なぜならヨハネによって教えられた神の国の訪れと罪の悔い改めこそが、これからは人々に伝えられるようになるだろうし、人々もそれを求めるようになるであろうということだ。つまりは、従来通りのことしかできない律法学者には、もはや出番はないのだ。それどころか、彼らが自ら思っているように、神は彼らのことを見ていないのである。人々の前にいかに誇らしげに自らの清さを見せようとも、神は彼らの見せかけだけの義を認めなかったのだ。

とはいえ、イエスは律法を否定しているのではない。彼は続けてこう言っている。「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(同17節)もちろん、世界が消え失せてしまうことなど、そう簡単に起こることではない。なおのこと、律法が消えることなどないのである。それこそ、この世の終わりが訪れない限りは、神の律法も預言者の言葉もしっかりと存在し続けるのだ。なぜなら、それらの価値がなくなったというわけではなく、新たな役目が与えられているからだろう。律法によって人は正義とはならない、その代わりに律法は人に罪があることを示し、人には赦しが必要であることを教えるだろう。そしてその赦しは、イエス・キリストによって与えられるということが福音の伝えるところなのである。