永遠のいのちの値段

「お金で幸せを買うことはできない。」(”Money can’t/doesn’t buy happiness.”)ということを耳にすることがある。正直言うと、貧乏人の負け惜しみのように聞こえてしまい、私はあまり好きなではない。それはさておき、この言葉は果たして真実を表しているのだろうか……とは言っても、幸せが何であるかは人によって異なるだろうから、一概に答えることはできないだろう。日本の話ではないが、これについて真面目に研究したところもあるそうだが、残念ながら、これもあまりあてにはならないだろう。これが事実であるという立場からすれば、そのための証拠をあれこれと出してくるだろうし、その反対もまた然りである。議論の内容が漠然とし過ぎているのだ。

ところで、これはあくまでも学説のひとつであって、参考にしかならないだろうが、アメリカの心理学者アブラハム・マズロー博士の提唱する欲求段階説によると、人間の欲求(“needs”)には五段階あるという。欲求と訳されてはいるが、”needs”と原文に書かれているからには、単なる「欲望」ではなく「必要性」という意味合いも含まれているのだろうから、その前提で考えてみる。この五段階であるが、一番低い段階からそれぞれ、生理的欲求(衣食住の確保)、安全の欲求(安定した経済生活、医療の保障、事件事故からの安全策)、社会的欲求(社会的役割の維持、人間関係の確立)、尊重の欲求(他者からの尊敬、自己信頼による自立と自由)、自己実現の欲求(自己の可能性を認識し、最大限に活用できる存在となること)とあるそうだ。それを考えると、金で幸せになることができるかどうかは別として、金があれば五段階のうち自己実現を除いた四段階までは得ることができるだろう。(当然ながら、手元の金を賢く使うための知恵と努力が必要なのは言うまでもないが。)さらに考えると、自己実現の欲求を満たすことができていれば、金を持っていることにさほどの意味を見出さなくなっているかもしれない。もし私がこの言葉の真偽を問われたとしたら、私は「八割までは偽りである」と答えるに違いない。

もし、この世に金で買えないものがあるとすれば、それは永遠のいのちであろう。イエス・キリストはこのようなたとえ話をされている。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。……さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」(ルカによる福音16章19~23節)

その理由について、イエスはたとえの中でこのように説明している。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」(同25節)

だがふと考えると、本当にそうなのだろうかという疑問が湧いてくる。イエスのことばを疑うわけではないが、天の御国に入ることができる条件というのが、他の箇所で言っていることと少し違うような気がする。天の御国に入るには、罪を悔い改めて、福音を受け入れることではなかったか。貧しければ入ることができる、などとは教えていなかったはずだ。まさかイエスが適当なことを言うわけはないだろう。そうすると導き出されることは、ラザロは神の赦しを受け入れ、金持ちはそれを受け入れなかったということになろう。

金持ちは自分がすでに神の御国に行けないことを認めたうえで、彼の兄弟たちが同じような目に遭わないように、ラザロを彼らのところに遣わして欲しいとアブラハムに願うのだったが、彼はこう答えるだけだった。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。……もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」(同29、31節)

つまりはそういうことなのだ。すでに神の御国へ行くためにはどうするかということは、旧約聖書を通してイスラエルの民には示されていたのである。どれだけ奇跡が起きようとも、またバプテスマのヨハネやイエス・キリストご自身がいくら語ろうとも、そもそも聞く耳や見る目を持たなければ、受け入れる心を備えていなければ、彼らは神のもとに行くことができないのだ。罪を悔い改め、神のことばを信じるかどうか、それが唯一の基準なのである。

それだからこそ、永遠のいのちには金銭的な価値が皆無なのである。神の前では、財産があるとか貧しいとか、そのようなことはまるで関係がないのだ。神のことばを受け入れるかどうか、信仰の有無がすべてなのだ。それだけあれば十分なのだ。