つまずかせない

しばらく前から浴室の蛇口の具合が悪かった。お湯を出すたびに蛇口の付け根のところから、少しずつ水が漏れてしまうようになっていた。最初はわずかだったけど、日を追うごとに漏れがひどくなってきたので、先の連休で時間ができたときに、修理することにした。今のマンションに越したときに蛇口を交換したからもう十数年も経過しているのだから、ゴムパッキンが相当に傷んでいるのだろうと思ってはずしたら、とんでもない!ゴムパッキンどころじゃない!蛇口の根本の、ちょうど配水管との連接部分がすっかりすり減って、半分くらい無くなっているじゃないか。これでは水が漏れても不思議ではない。

そんなわけで、近所のホームセンターに新しい蛇口を買いに行ってきた。水回りをいじるついでに、まだ傷んでいるわけではないが水栓のゴムパッキンも交換しようと、それも一緒に買ってきた。蛇口なんて安いもんだろうと思ったけど、結構するものだ。さておき、帰ってくるなりさっそく水道の元栓を閉めて、蛇口一式、お湯と冷水の水栓のゴムパッキンを交換だ。緩んでいないことを確認して、元栓を開く……我が家の浴室の水道の元栓は玄関の外にあるので、わざわざズボンをはかないといけないので面倒だ。改めて浴室に戻りお湯を出してみるが、蛇口の根本から水が漏れていないことを確認。無事に作業は終わったようだ。だが、しかし、である。二日三日経った頃から、今度は蛇口の先から水がぽたぽたと漏れるようになってしまった。いくら栓を閉めても、止まらない。一週間もしないうちにぽたぽたどころか、途切れることなくちょろちょろと水が漏れるようになってしまった。水栓のパッキンは変えたばかりなのにおかしい。ということで、改めてパッキンを締め直して様子を見ているが、どうやら今度は問題ないようである。それにしても、水栓が少し固いようである。栓そのものを交換した方がよいのかもしれない。そのうち時間を見つけてやるとするか。

しかし、ぽたぽた、ちょろちょろと漏れた水がもったいない。ちりも積もれば何とやら、ではないが、一晩の間に漏れた水を浴槽に貯めておいたら、それなりの量になってしまった。残念ながら、さすがに飲用や食用にはできない。

浴槽に貯まった水を思うときに、もしかしたら人の犯す罪も似たようなものではないかと脳裏を掠めた。ほとんどの人々は法で裁かれるような大きな過ちを犯すことはないだろうし、それこそ多くの人々は、それなりに良い人として人生を送っているだろう。とは言っても、小さな間違いは日常のなかで数限りなく犯しているかもしれない。他人に対する妬みや恨み、怒りや憎しみ、やらなければよかったと後悔すること、やっておけばよかったと悔やむこと、時間が経てば忘れしまうようなことばかりかもしれないが、ひとつひとつの過ちは小さくとも、それらが赦されることなく貯まっていけば、水漏れを放置すれば浴槽からあふれ出してしまうように、人を罪でずぶ濡れにさせてしまうのではないか。

これまでイエス・キリストは律法学者や宗教家など、彼を信じようとしない者に厳しいことを言ってきたが、今回は信じる者にも戒めのことばを与えている。彼は弟子たちにこのように言ってる。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(ルカの福音書17章1~2節)

過ちを犯すのは仕方ないことであると、これはさすがにイエスも分かっている。罪が何かを知らないのであればやむを得ない。しかし罪が何であるか分かっていながら、その原因やきっかけを作るのであれば、それはさらに大きな罪となると、イエスは注意を促している。また続けてこのようにも言っている。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(同3~4節)

人は罪ある存在である。分かっていながら犯すこともあれば、意識せずに犯してしまうこともあるだろう。だが、どのような罪であろうともそれを悔い改めれば、赦されることができるのだ。しかしそれと同じくらい大事なことは、誰かが我々に過ちを犯したとしても、相手を赦すことでもある。もし我々が赦さなければ、相手の罪はそのままになってしまうだろう。考えてみると、赦さないということは、相手にとってつまずきを与えることにもなるのではないか。赦さないということは、自らに相手の犯した過ちよりもさらに大きな罪を負わせることになるだろう。

自分たちの罪が赦されているにも関わらず、人の罪を赦さないでいるのは、イエス・キリストの生き方に倣っているとはいえまい。それはむしろ信仰者としての驕りではないだろうか。そのような態度こそが、パリサイ人たちがイエスに憎まれることとなった原因でもあろう。