信仰を増やす

この年齢になってからはあまり重要なことではないだろうけど、身長が増えるのはどちらかと言えば嬉しいことだろう。もっとも、身長よりも収入が増えることの方が正直ありがたい。他には知恵や知識が増えるのも、これも喜ばしいことだ。ゼロは何倍してもゼロなように、そもそもないものは増えないだろうけど、名声も増えたら、幸せになれるかもしれない。とは言っても、名声って何だろう。やっぱり持ってないものなので、よく分からんな。しかし何でもかんでも増えればよいってもんでもない。この世には減った方が望ましいものだってある。まずは体重。これは、はっきり言って減ってもらいたいものである。だけどあれやこれやとどう頑張ってみてもあるところから先は、なかなかに減らないものである。それに支出。日を追うごとに増えて欲しい収入は一向に増えないのに、減って欲しい支出はなぜか増え続けるという不思議。

目で見ることのできるもの、もしくは目で直接見ることができなくとも間接的に計量することができるもの、そういったものは増えても減っても気付くことができる。それゆえに増やしたいと願うこともできるだろうし、反対に減らしたいと思うこともあるだろう。それを達成するためにはどうしたらよいかと考えることもできるだろうし、方法が明確になれば努力することもできるだろう。例えば、体重を減らすとか、貯金を増やすとかは比較的わかりやすい部類かもしれない。もちろん、それを実現させることができるかどうかは、これまた別の問題になってしまうが。

それでは、目で見ることもできなければ、量ることもできないようなものは、果たしてどうやって増やしたり減らしたりすることができるのだろうか。いや、そもそもその数量を変えるということはできるのだろうか。例えば、幸せというものが当てはまるだろう。人は自分が幸せであるか、それとも反対に不幸であるか、それを感じることはできるだろう。だがそれは漠然としたものであり、それを量るための物差しのようなものはない。幸せ度を上げるにはどうするか、なんて考えることは無理である。一目盛だけ幸せ度がアップした、なんて見ることはできない。幸せは感じるものであって、量るものではないだろう。

ところでイエス・キリストの弟子たちは、このように主に質問している。「私たちの信仰を増してください。」(ルカによる福音書17章5節)

信仰も同じように量ることのできないものである。いったい弟子たちは何を望んでいたのだろうか。信仰がない、ということであれば信仰を持てるようにしてくださいと、イエスに頼むこともできよう。だが、すでに信仰は持っていたであろうところに、さらに信仰を増してくださいとは、これ以上何を求めていたのだろうか。そもそも弟子たちは自分たちの信仰が増えたか減ったかを、感じることはできたとしても、量ることができずにどうやって本当に信仰が増えたかどうかを確信できるのだろうか。やはり自らの感性に従うしかなかったのだろうか。だとすれば、やはりあいまいなものである。

さてこのような弟子たちの願いを聞いて、イエスはこう答えた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(同6節)

前にもどこかで書いた気がするが、からし種とは直径1~2ミリ程度のとても小さなものである。そのくらいの信仰があれば、どのように不可能と思えることでも実現することができるということであろう。もちろん、それを実現させるのは信仰を持っている当人ではなく、その信仰の対象である神であり、またキリストである。当然ながら、神ご自身が望んだことでなければ、人がどれほど信仰を持っていようとも、神が望んでいないことや求めていないことは、実現されないであろう。しかし、そう考えるとからし種ほどの信仰があれば神に願いが通じるのであるから、わざわざそれを増やそうなどと考えるまでもないのではないか。それこそ、信仰があるかないか、それだけで十分なのではないか。たとえ立派な信仰ではなくとも、わずかでも神を信じる心があれば、神は人の求める声に耳を傾けてくれるであろう。

信仰は良いものであるから、増やそうと望むことには何の問題もないはずだ。だが、その目的は何であろうか。弟子たちは何を望んだのか。すでに山をも動かすことのできる信仰は持っていたはずだ。おそらく彼らが信仰を増やしたいと考えた理由とは、直前のイエスのこのことばを振り返ると、なんとなく分かるような気もする。「あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(同4節)

もしかしたら彼らが求めたのは、人を赦すための信仰なのかもしれない。人を赦すのは難しいと彼らも感じていたのだろう。赦された者には人を赦すという責任がある。それを行うには、やはり神の力に助けられる必要があるということなのだろう。