十人のうち一人

駅から自宅に向かう階段を上りきったあたりの、ちょうど階段の手すりの向こう側の斜面のところに、なぜかスポンジが落ちている。スポンジと言うからには、本当にどこにでもある一般家庭の台所で使うような、誰もがまっさきに思い浮かべるであろう、あの四角いスポンジなのである。何も特別なものでもない。洗車するのに使う大き目のものが屋外に落ちているのであれば、誰かが落としたのが風で飛んできたのかもしれないと、その来歴もなんとなく想像することもできるが、食器を洗うためのスポンジが落ちているのである。一体誰が何のために、階段脇の斜面に置いたのだろうか。それとも、近所の家の台所の窓から落ちたのが、転がってきたのだろうか。だが、その近辺にそれっぽい家もないし、その説も考えにくいから、もしや、どこかの台所での使役に耐え兼ね、夜中に逃げ出したものの途中で力尽きてしまったのか……謎は深まるばかりだ。

いやいや、たかが落ちているスポンジごときにそんな大げさな物語を考えてもしようがない。誰かがごみに出そうとしたのを落としたとか、きっとつまらない理由だろう。それにしても、最初にそこにスポンジが落ちているのを見つけたのは、半年くらい前のことだろうか。それが今でもそこにあるのだから、それはそれで大したものである。誰かが拾って捨てるわけでもない。そんな小さなスポンジの存在を誰も気にしていないのか。はたまた気付いたとしても、わざわざ処分しようなどと考えないのだろうか。まぁ、気付いて何をするわけでもなく、ただ成り行きを見ていた私も同じように無責任かもしれないが。とはいえ驚くに値するのは、この半年の間どれほどの強風にも飛ばされずに、また大雨が降っても流されずに、同じ場所からわずかにも動いていないということだ。根を下ろすというが、まさしくスポンジに根っこが生えてしまったかのようである。

さて、道端に根を下ろしているスポンジの話はこれくらいにして、今回も聖書を読んでいきたい。イエスと弟子たちが旅をしていた時のことだ。「ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。』と言った。イエスはこれを見て、言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中でいやされた。」(ルカの福音書17章12~14節)

病に悩む人々が癒されたという話である。似たような話は今までにも何度か見てきたから、これだけでは珍しいことではないだろう。いや、珍しくないと言うのとは、ちょっと違うかもしれない。イエスが身近におられる世界、つまりイエスと直接会話をすることができ、目でその姿を見るとこができ、耳でその声を聞くことができ、手でその衣や体に触れることができる状態では、病が癒されるというのは珍しくないということだ。だが、今回はこの十人の、その後に目を向けてみたい。まず確かなことは、十人はイエスに助けを求め、十人が共にいやされたということである。半数がいやされたというわけでもなければ、十人のうちの選ばれた一人のみがいやされたというのでもない。誰もが同じようにイエスに救われたのであり、イエスの思いは十人に公平に向けられていたに違いない。

ところが、聖書にはその後のことがこのように書かれている。「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」(同15~16節)

どうであろうか、十人の態度は異なっていた。正確に言うならば、十人のうち一人だけが違っていたというべきか。なぜなら一人だけが、イエスのところに戻ってきたのである。イエスによって同じように助けられたにも関わらず、たった一人だけが自分の身に起きたことで神を賛美し、そしてイエスに感謝するために戻ってきたのである。なおかつ、その一人はユダヤの民ではなく、外国人であったというではないか。つまりイエスの同胞であるはずのユダヤ人はそのままどこかへ行ってしまったにも関わらず、外国人の男だけが戻ってきたのである。イエスはこの男に言った。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(同19節)

イエスはこの外国人に信仰があることを認めたのだ。他の九人は……行方知れずのままだ。彼らに信仰があったのかどうか。彼らに信仰がまったくなかったというわけでもないだろうが、おそらく彼らには自分たちはユダヤ人であるから、神から哀れみを受けても当然と思っていたのだろうか。であるとすれば、彼の信仰はイエス・キリストに対してではなく、ユダヤ人であるという彼ら自身の立場に対する信仰だったのかもしれない。ところがイエスのところに戻ってきた男には、そのようなものがなかった。彼が頼ることができるものは、イエス・キリストだけだった。それだけに、喜びも感謝もひときわであったろう。この時いやされたのは十人いたが、その信仰が根付いて、後々までも信仰を持ち続けたのはおそらくこのサマリヤ人だけだったろう。