自由に求める

これが欲しいとか、あれが欲しいとか、私の欲は尽くことがなさそうだ。食欲、睡眠欲、物欲に金銭欲。おおよそ欲という字の付くもので私を形容することができそうである。私から欲を取ってしまったら、いったい後には何が残るだろうか。もしかしたら脂肪くらいは残りそうだが、せいぜいそれくらいだろうか。そう考えてみると、まるで私は欲と脂肪の塊のような存在のように思えてしまう。なんだか潰したら汚そうだし、後の掃除も大変そうだ。さて、そんな私の欲求なんてものはまず満たされることがなく、日々は過ぎていく。何やらもやもやした気持ちで、すっきりしないまま過ごすこともしばしば。しかし、もしかしたら、欲があるゆえに生きていくことができているのではないか、そう思うこともある。もし万が一にも私の欲がすべて満たされてしまうようなことがあったら、もしかしたら私は抜け殻のようになってしまうかもしれない。

それはさておき、祈りの中で神に何かを求めるとする。もちろんどんなことでも求めて構わないと言われても、気が小さいからなのか、それとも信仰心が薄いからなのか、本当にこんなことを求めても良いのだろうかと考えてしまうこともある。自分のわがままな願いを祈るくらいなら、もっと求めるべきものがあるのではないか、そう考えてしまう。たとえば、まだ本当の神を知らぬ人々がイエス・キリストと出会うことができるように、そうやって他人のために祈るのが正しいのではないか、と。確かにそれが正しいことに違いはないだろう。しかしそれだけが正解なのかというと、そうでもないのかもしれない。

ある出来事を、ルカはその福音書に記録している。イエス・キリストが弟子たちやついてきた群衆と一緒にエルサレムに向かって旅をしている途中、エリコという街に近づいたときのことだった。「ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。』と言った。」(ルカの福音書18章35~38節)

この盲人は、おそらくイエス・キリストについての噂を前々から聞くことがあったのだろう。そして、その話のうちからイエスがどのような人物であるかも知っていたのかもしれない。彼は大声で言ったとあるから、人々は何事かと思っただろう。「彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた。」(同39節)

イエスがこの騒動に気付かないわけはない。「イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか。』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです。』と言った。」(同40~41節)

盲人は人のために何かを求めたのではなかった、単純に彼自身が最も欲しているもの「目が見えるようになること」を願った。果たして彼のそのような考えは、おそらく見方によっては自己中心とかわがままとか言われてもしかたのないものだったろう。しかし、それは間違ったことであったろうか。人間的な道徳心から考えるとすれば、そのように思われてもしかたないだろう。しかしイエスの視点からすれば、必ずしもそういうわけではなかった。彼がイエスに対して求めたこと、それ自体が正しかったのである。重要なことは、何を求めたかということではなく、誰に求めたかということであろう。

その結果どうなったか。ルカはこう書いている。「イエスが彼に、『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。』と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」(同42~43節)盲人は、もはや盲人ではなかった。では、何かを得たのはその人だけだったであろうか。いや、そういうわけでもなかったようだ。そこにいた人々は奇跡が起こるのを最前列で見ることができ、神の力を目の当たりにしたではないか。滅多にあることではないだろう。そして、神は人々からの賛美を受けたではないか。

人はどんなものであろうと、どんなことであろうと、たとえそれが自分だけにとって有益なものであろうとも、イエス・キリストに対して自由に求めることができるのだ。たとえ周囲から止められようとも、求め続けても構わないのである。ただ忘れてはならないのは、ただ闇雲に求めれば良いと言うことではない。イエスはこの盲人に信仰があることを認めている。信仰があってこそ、初めて自由に神に願い求めることができるのだろう。ともすれば自己中心やわがままなものであろうとも、その結果が神の栄光につながるというのであれば、その願いを神は実現してくださるのだろう。そして、願っていたものを得たこの人は、神を褒め称えながらイエスについて行った。これが、叶った願いに対する、人の応答のあるべき姿なのかもしれない。