失われた人

今週から私の住むマンションで、各住戸の玄関ドアの交換工事が始まっている。数えてみれば築三十年近く経っており、それなりに経年劣化も進んでいるから、必要なことなのだろう。私の住む三階部分はさほど問題ないのだが、一階部分は地面からの湿気や風雨にさらされることが多いのか、見るも無残な有様だったので、やはり大規模修繕に先立ってドアを交換するのも分かる。だが、私が納得できないのは、ドアのデザインである。今まではいわゆる普通のドアだった。丸いドアノブがあって、真ん中に鍵穴があって、鍵を回して開けて、ノブをくるっと回して引っ張ると開くという、これこそがドアのあるべき姿ではないかと、そう私に思わせるものだった。ところが、これが今どきのドアになってしまった。色もそれまでのオフホワイトからえんじ色になってしまった。ドアの模様も直線と曲線に立体の混ざったレトロな雰囲気から、平面的かつ直線的な単調なものになってしまった。時代も昭和から平成へと変わり、20世紀から21世紀に変わったから、マンション用のドアのあり方も変わったのだろうから、どうしようもないのだろうけど、どうも残念でしかたがない。これだけは、納得できない。新しくなったから、めでたしめでたし、とは言い難い。でも、私ひとりがそう思ったところでどうしようもない。

もとより私は素直な人間ではない。周りが左と言えば右と言い、右と言えば左と言うような感じで、協調性がないというかあまり周囲とは同調しない方である。悪く言えば天邪鬼、良く言えば自主独往というところか。もちろん私は、人々が言うことに何でもかんでも反対するわけではない。納得できることであれば賛同もするし、必要だと思えば従うこともある。人が良いというもので、それが良いと思えば素直にそう言うだろう。

ところで、イエス・キリストも人々の言うことに流されるようなお方ではなかった。もちろん、イエスは神のひとり子であったことを考えると、周りが何と言おうとも、いちいちそれを気にする必要もなかっただろうが。何と言っても、彼はこの世界の常識には縛られていなかったのだから。

さて、イエスと弟子たちはエルサレムへの旅を続けており、途中でエリコという町にやってきた。ちょうどその時に起きたことをルカはこう書いている。「こには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」(ルカの福音書19章2~4節)

このザアカイという男であるが、人々からは「罪人」(同7節)とみなされていた。当時のユダヤの人々にとって、この取税人というのは忌むべき存在であった。まずひとつに彼らは自身がユダヤ人でありながら、敵視していたローマ帝国のために他のユダヤ人から税金を取っていたということにあり、もうひとつは、税金という名目で集めた金銭の何割かを自分たちのふところに収めていたということにあった。つまり、一般的なユダヤ人から見れば、取税人とは裏切り者であり、また泥棒でもあったのだ。それを考えると、「取税人のかしら」であったザアカイは、言うなれば裏切り者と泥棒のかしらであったということになる。どれだけ憎んでも憎み足りないような存在であったに違いない。そんな男が好奇からイエスを見ようとしたのだ。

イエスがちょうど彼のところに来たとき、木に登っていた彼を見上げた。彼は人々から罪人と見られていたことを知っていただろうし、イエスにもそのように思われていると考えていたかもしれない。おそらく気まずい思いをしたであろう。その様子を見ていた人々は心の内で、律法学者たちがイエスに叱られたように、取税人も怒られてしまえと、そう期待していたかもしれない。イエスは木の上の彼を見てこう言った。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(同5節)

おそらく誰もが驚いたことだろう。しかし、一番驚いたのはザアカイ本人だったかもしれない。彼は「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。……ザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」(同6、8節)イエスに認められた喜びゆえに、彼は今までの行いを悔い改めたのだろう。

イエスはザアカイにこう言っている。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(同9~10節)人々にとってザアカイは罪人であった。しかしイエスから見たザアカイは「アブラハムの子」であり「失われた人」であった。世の中には色々な人々がいて、同じくらいに人々はお互いのことを言うだろう。しかし、イエスはそれらの声に流されない。イエスにとっては一人ひとりが「失われた人」であり、彼らを「捜して救うために」この世界に来られたのである。