生けるものの神

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)まず初めに、神はこの世界とそこに住むすべての生き物を造られた。神がどのようにそれを達成されたのか、それは人間には知ることのできないことであろう。もしかしたら、そもそも知る必要がないことなのかもしれない。人間が憶えておくべきは、神がこの世界をゼロから造りだし、そして神がそれをご覧になったときに、それは非常によかった、と神は納得し、そして満足したということであろう。

この天地創造の箇所が、私は好きである。それというのも、神のなされた数々の奇跡のうち、これだけが今でもその痕跡を見ることができるからだ。いや、もしかしたら神の奇跡というのは他にも多くの場面において見ることができるのかもしれないが、私程度の信仰ではそれもなかなか難しい。しかし、果てしなく広がる空に、地上を明るく照らすの太陽の光、暗い夜空に輝く月や星々、枯れて葉を落とした木々の向こうに見える、遠くの山々の頂に積もる雪、高台から見る海の群青色……どれひとつとっても神が造られたものと思えば、神というものは、けっして離れたところから人の行いを見ているだけの遠い存在ではなく、もっと身近でかつ現実の存在であることを、改めて思い起こすのである。その神が造られたものは、良いものであった。神ご自身がそう言っている。確かに、神は中途半端なものを創造しなかった。神の創造された万象のうち、無機質なものは別として、すべてに命が与えられていたではないか。「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』すると、そのようになった。」(同29~30節)

神は死んだもの、命を失ったものを造られなかった。神は生けるもの、命のあるものだけをこの世界に置かれた。すなわち、神は死んだものの神ではなく、生きるものの神であると言えよう。

さて、イエス・キリストが宮で人々に話をしているときであったが、復活があることを否定する人々がやってきて、ある質問をしたという。(ついでに言うと、当時の律法学者たちの間では、復活を否定するサドカイ派の人たちと、復活を信じているパリサイ派の人たちがいたという。互いに意見や立場の違いはあったようだが、少なくともイエスに対する否定的な考えは共通していたようだ。)彼らの質問は、七人兄弟の長男が妻とした女性を、長男の死をきっかけとして、次男の妻となったものの、その後次男が死んで、三男の妻となったが、今度は三男が死んで……結局生き残った末の弟が妻としたが、結局彼も死に、とうとう女も死んだという、かなり無茶な話のようであるが、復活の際に誰が彼女を妻とするのかという内容だった。イエスが答えに窮することを期待していたのだろうか。そして、その結果次第では、それ見たことか、復活などあり得ないことだ、とでも言ってやろうと目論んでいたのかもしれない。

ところがイエスは彼らの質問に、このように答えて言った。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」(ルカの福音書20章34~36節)

結婚などというのはこの世の営みであり、復活の後はその限りではないという。なぜなら、人はもはや死ぬことはなく、御使いのような存在になるからだという。それがどのようなものなのか。私の勝手な想像であるが、死なないということは、年を取ることもなければ、肉体も精神も衰えることがないということだろう。誰もが神の子とされ、神を中心としたひとつの家族になるということなのか……正直あまり魅力は感じないが、やはりそのような考えも変わるものなのか。

またイエスはこのようにも言っている。「死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(同37~38節)

神は生きている者の神である。であれば、人が神に目を向け、神を信じ受け入れるのであれば、その人は神に対して生きている者となり、人は復活の後に永遠のいのちを得ることになるだろう。永遠のいのちへの敷居は、幸いにも案外低いもののようだ。