長い言葉

前にも書いたかもしれないが、私は新製品とか、期間限定とかいう言葉に弱い。それに加えて割引となっていると、さらに興味が増してしまう。ところで先日、駅前のコンビニに行ったら「パン全品20円引き」となっていた。ちょっと小腹が空いていたこともあり、何か甘いものを食べたい気分にもなっていたので、蟻が甘い蜜に導かれてしまうかのように、つい足がコンビニへ向かってしまった。新製品のパンが20円引き……おぉ、なんと素晴らしいことなのか。新製品の菓子パン……あぁ、なんたる甘い響き。しかも、あんぱん好きの私にとっては、その甘い誘惑から逃れることができない小豆、つまりは餡子が使われているではないか。これは買うしかない。でも、ひとつだけ買ってしまうと、家族で分けたときに自分の取り分が減ってしまうので、それは避けるべきだ。ということで、同じものを二つ買うことにした。これで、合わせて40円引き。なんだかすごい得した気分である。まぁ、ホントは、必要のない出費をしただけなのかもしれないけど。

そのパンの名は「よもぎ求肥と小豆を包んだ/よもぎと小豆のちぎれるぱん」である。ちなみにひとつ119円、なんと20円引きすると99円、ぎりぎり二桁で収まる値段ではないか。もちろん、税抜価格なので実際には100円を超えてしまう。だが、そんなことを考える理性など残されているわけがない。

それにしても、後から考えてみると、このパンの名前、やたらと長い。長いうえに、空腹が満たされ、余裕が出てからパッケージを読み直すと、どうも不思議な気がしてならない。もしかしたら印刷の仕方によるだけなのかもしれないが「よもぎ求肥と小豆を包んだ」が直後の「よもぎ」に掛かっているように読めてしようがない。つまり「よもぎ求肥と小豆を包んだよもぎ」のパンになってしまう。もっとも、そうだとしたら一体全体どんなよもぎなのか想像できないが。誰がどんなことを考えて命名したのか分からないが、なんとも長くて混乱させられる名前だとは思いつつも、妙なセンスに感心してしまう。

さてパンの話はこれくらいにして、話をルカの福音書に戻そう。先ほどのパンの名前と言い、長い言葉や文章というのは、読み手を混乱させてしまうことが多い。確たる目的があるならまだしも、そうでないのであれば、言葉は簡潔に使うようにしたいものだ。そう考えると、祈りについても同じことが言えるのかもしれない。

ところでイエス・キリストと律法学者たちとのやり取りは、多くの人々の目にするところであったろう。ルカの福音には、その時のことについてこのように書かれている。「また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。『律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。』」(ルカの福音書20節45~47節)

イエスを敵視していた律法学者たちであるが、その一方でイエスから見た彼らは「あいさつされたりすることが好き」で「上席や上座が好き」で「やもめの家を食いつぶし」たり「見えを飾るために長い祈り」をするような人々であった。イエスにしてみれば、彼らは弟子たちにとって気をつけるべき存在、すなわち要注意人物の集団であった。言うなれば、イエスの陣営と律法学者の陣営は、互いに相手を危険視していたことになる。イエスは神の立場から彼らを見ていた。いや、彼らの本質を見抜いていたというべきか。彼らは指導的立場にありながら、神と人々を和解させるようなことを、何も行っていなかった。彼らは神の栄光のためではなく、自らの栄光のために活動していたのである。はたして彼らがそれを自覚していたかどうか。自覚していたのであれば、まだ神に立ち返る余地はあったのかもしれないが、そうでなければ、もはやどうすることもできなかっただろう。

そのような彼らにとっては、祈りは神との対話ではなかった。それよりも、自らの信仰の深さ、自らの清らかさ、自らの立場の顕示、それらを表現するための手段であった。聖書の別の箇所にも書かれているが、自らが罪人のようではないことを声高に宣言するような祈りであった。律法学者たちの祈りには、神の前にへりくだり、神の栄光を称え、神に感謝し、自らの弱さを認め、神の助けを求める、という祈りの要素の全てが欠けていたようである。イエスの目から見れば、彼らの祈りは、もはや祈りですらなかったのだろう。どちらかと言えば、祈りの形をした、自己礼賛でしかなかったのかもしれない。

ともすれば、これは信仰者も犯してしまいやすい過ちかもしれない。祈りは長ければ良いというものでもないであろう。神は数多くの祈りの言葉を求めているわけではない。神は祈るひとりひとりの心のうちをご覧になるからだ。神を賛美する心があり、神を求める思いがあることが、神の求める祈りなのだろう。

あ、最後になったけど、念のために言っておくが、パンはおいしかった。満足、満足。