二枚の銅貨を投げる

私がキリスト者になってからというもの、神社にお参りに行くことはなくなってしまった。では、キリスト者になる前は、ちゃんと神社にお参りに行っていたかというと、実はそういうわけでもない。まぁ、19歳の時にアメリカに行ってしまったからというのも理由かもしれないが。それ以前の記憶では、せいぜい正月に初詣に行ったくらいか。そして初詣と言っても、元旦にではなく、数日くらい経ってからだったような気がする。ところで神社にお参りと言えば、ケチな私はお賽銭を連想してしまうのだ。お賽銭はいくらぐらいが適当なのか。やはりご縁があるようにということで、五円がいいのだろうか。年始のニュースなどで、お賽銭箱の中身を神社の職員の方々が整理している場面がたまに放映されるが、そこで一万円札とかを見ると、結構な額を投げている人がいるのだなぁと、ちょっと神社がうらやましくなってしまう。やはり額は多い方がいいのだろうか。

ところで実際のところ、額はあまり重要ではないらしい。一説では、お賽銭とは「神様」(聖書のじゃないよ)への感謝のしるしであるらしい。またある説では、自らの汚れや邪気を金銭に託して清めるという意味もあるとか。キリスト者の視点から見れば、供え物としてのお賽銭と、いけにえとしてのお賽銭という考え方があるように思われる。いずれにしても、願いをかなえてもらいたいがために金銭で「神様」を買収するという意味はないらしい。願い事の大きさと金額は比例しないということか。

どうやら洋の東西を問わず、「神」という存在は人間の経済生活の圏外にいるものらしい。何かをするたびに金銭が必要となるような神とは、ちょっと神と呼ぶには相応しくないだろう。経済生活という同じ土台に立ってしまっては、もはや至高の存在としての神の立場が疑われしまう。

さてキリスト者には、賽銭というものはない。その代わりに献金というものがある。「神様」(ここでは聖書に登場する神様のこと)に対する感謝の表れである。また自らの稼ぎの一部を捧げるという信仰の表れでもある。お賽銭とは別のものであるが、思想的には通じているところがあるような気もする。そして額の多い少ないも問題ではないし、必ずしも多ければ良いというものでもない。

ルカの福音書にはこのようなことが記録されている。やはりイエス・キリストが神殿にいたときのことだ。「さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。」(ルカの福音書21章1~2節)

今で言うならば、金持ちたちが分厚く膨らんだ財布から札を抜き取って献金箱に入れる一方で、貧しい未亡人が小銭入れの中からなけなし小銭を献金したようなものだろう。関係ない立場からこの状況を見れば、多額の献金を捧げた金持ちの方が立派に思えるだろう。金額が多ければ多いほど、教会としてできることが増えるからだ。たしかに、神は金銭を必要とはしていないが、この世界に住まう人々の集団である教会は、やはり経済活動をしていかなければならないから金銭は必要となる。献金箱は神殿にあり、また今なら教会にあり、そこに捧げられた金銭はこの世界に住む人々によって管理され、この世界で活動するために様々に使われることだろう。イエス・キリストの時代であっても、今の時代であっても、それは変わらない。

だが、そのような見方だけで考えてしまうと、献金が神への捧げ物という意味を忘れてしまうことになるだろう。すなわち神への感謝の表れ、神への信仰の表れとしての献金、そう考えると金額の多寡は重要ではなくなる。それよりも、捧げる側の気持ちが意味を持ってくるに違いない。何を考え、どのような思いで捧げるか、ということだ。

さてイエスは金持ちたちとやもめの様子を見て、このように言っている。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(同3~4節)

レプタ銅貨二枚がどれほどの価値に値するのか分からない。レプタという語には小さいという意味もあり、おそらく貨幣単位としては極めて少ないものだったのだろう。それでも、イエスは彼女が最も多く捧げたという。なぜなら、金持ちたちも他の人々も、持っているうちの何割かを捧げただけだったが、彼女は十割を捧げたからだった。つまり、持ち金の全部である。遊興費であるならまだしも、生活費を出してしまったのである。普通に考えれば、次の日からの生活に困ってしまうだろう。人間的に考えれば、なんと愚かなことを、と思ってしまう。しかし信仰的に考えれば、彼女の信仰ほど完璧なものはないだろう。彼女は神がすべての必要を満たしてくださると確信したがゆえに、自ら生活していくための必要なものすべてをなげうったのだから。信仰があると口で言うことはいくらでもできるだろうが、彼女のように行動で表すことはとても難しい。