絶滅危惧種

先日、世界に三頭しかいないというキタシロサイの一頭が死んだ。死んだのはこの世に生存していた最後のオスだったそうな。残りの二頭はメスなので、この時点で絶滅することが確定した。スイスに本部を置く国際自然連合によると、おおよそ二万種の生物が絶滅危惧種として認定されているそうだ。種が絶滅するのは自然の流れのなかではやむを得ないことなのであろう。今でこそ人類は繁栄を誇っており、地球上で最も優位に立っている存在であると言っても言い過ぎることはないだろうが、そんな人類でさえいつかは「絶滅危惧種」になってしまうという可能性も否定はできないだろう。急激な気候変動、巨大火山の噴火、小惑星との衝突、致死率の高い感染症、等々……未だかつて人類が遭遇したことのない自然災害が発生するかもしれない。もしくは人類が自らの過ちから何らかの事象を引き起こし、自らの破滅を導いてしまうことも、自然災害よりも確率は低いかもしれないが皆無ではないだろう。

その一方で、技術は日々進歩している。人類の英知をあわせれば、これらの問題を回避することも不可能ではないだろう。気候変動を抑止する方法を見出せるだろうし、火山の噴火を予測することができれば、事前に安全な場所に避難できるかもしれない。地球に衝突しそうな物体があれば、その軌道をずらすこともできよう。あらゆる疾病に対する治療方法も見出されるかもしれない。また人類も過ちを犯すことなく共存共栄の道を歩んでいるかもしれない。場合によっては、不死とは言わないまでも不老長寿を達成しているだろう。やがては人類は永遠に存在し続けることができるようになるのではないか。そう思えてしまう。しかし、終わりは必ずやってくる。50億年後、太陽の寿命が尽きる頃、地球は太陽に飲み込まれてしまう。火星に逃げても無駄である。木星、土星、まぁ、少しは生き延びられるかも。だが、太陽が死んでは、人類は生きていけない。もっとも、その時までに別の太陽系に移住していれば、話は別だが。

だがそうだとしても、やがては宇宙そのものがいつかは終わりを迎えることになるだろう。さすがにここに至ると話が大きくなり過ぎて、むしろどうでもよくなってくる。要するに、形あるもの、いつかは無くなるのである。それがどれだけ先のことなのか、違いはそれだけではないのか。滅びから逃げ切ることは不可能なのだ。

だとすれば、この世に滅びないものなどないのではないか、と。確かにそう考えたとしても仕方ない。

ルカの福音書には、イエス・キリストのこのようなことばが残されている。彼が人々に語ったたとえ話のひとつであるが、こう言っている。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(ルカの福音書21章29~34節)

イエスは言う。この天地は滅びる、と。しかし、こうも言っている。彼のことばは決して滅びない、と。終わりの日については、イエスはこの前の箇所で詳しく話しているからここでは省かせてもらう。終わりの日と言うと、何やら不安になってくるが、「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来る」(同27節)ことに先立って起きることなのである。すなわち、神の国が訪れるためには、避けることができないことなのだ。

厳しいかもしれないが、イエスはこのような戒めのことばを残している。「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(同34~36節)

放蕩や深酒のように具体的な行動であれば、避けることはそれほど難しくはあるまい。この世の煩い、これはちょっと難しい。この世で生きていれば、何だかんだと気になってしまい、身の回りの状況に不安を覚えてしまうこともあるだろう。しかし、そのようなことに気を取られている間に、終わりの時がやってくるかもしれない。その時は必ずやってくる、それはすべての人々に臨むとイエスも言ってる。しかし、その時をどう迎えるかは、選ぶことができる。心配ごとに心を奪われたまま、終わりの日を滅びの日とするか、それともイエス・キリストの再臨の時、神に国のはじまりの日とするか。滅びることのないイエスのことばを受け入れて、彼に身を委ねるか。絶滅から逃れる道はイエスが用意されているのだ。