たまごよりだんご

桜が咲いた。文字通り満開である。家の近所の桜並木はこれでもかというほどの花を咲かせているし、夜の帰宅時の電車から見ることのできる大岡川沿いの桜は、露店の煌々とした照明に照らし出さていたり、ぼんぼりのおぼろな灯りに浮かび上がっていたり、遠くから見ても見事なものである。長らく灰色の寒々とした日々を過ごしてきた人々には、暖かな空気に包まれ、淡い桃色の花を纏う桜に春の訪れを感じるのだろう。この時期、桜の木のもとには―失礼な言い方になってしまうようで申し訳ないが―それこそどこから湧いて出てきたのかと思えるくらいに人が集まってくる。個人的な好みの問題でしかのかもしれないが、私は青々とした緑の葉を付けることもなく、ただ花だけを咲かせている桜というのは、苦手である。確かに華やかかもしれないが、どこかバランスを欠いているようで、どうも違和感を感じてしまうのだ。世に言われているような春の訪れを感じるには、何と言うか生命力や活力に乏しいような気がしてならない。

ところで、今日はイースターである。どこまで本気なのか分からないが、商魂たくましい企業などは、この日を玉子を食べる日として世間に広めたいらしい。彼らにしてみれば、イースターと言えば、海外ではイースターエッグが有名だということで、どうやらそれに乗っかろうという気持ちがあるようだ。それにクリスマスと比べると、イースターは盛り上がりに欠けているので商機と見ているところもあるだろう。もっとも多くの日本の消費者にとっては、この時期はお花見に忙しく、今さら玉子を宣伝されてもそれどころではないのかもしれない。この日の本来の意味を知る立場としては、イースターの認知度がクリスマスほど高くないのを残念に思う反面、誤った知られ方をしていないことはありがたいことだとも思う。

それでは、イースターの本来の意味とは何か。イースターとは、日本語で言えば復活祭である。その名の示す通り、イエス・キリストの復活、すなわち死からのよみがえりを祝う日である。それ以上の意味はない。言葉で言ってしまうと単純なことであるが、それでは、イエス・キリストのよみがえりとは、そもそも何であろうか。

聖書にはこう書いてある。「イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネの福音書19章33~34節)イエスは死んだ。もっと正確に言うのであれば、殺されたということになるが。彼は多くの律法学者や宗教家から不興を買い、恨まれ憎まれ、当時の支配層であるローマ政府の手に委ねられ、最後は死刑を言い渡され、十字架につけられた。イエスは死んだふりをしたわけではなかった。彼の死を確認したのは、彼とは何の関係もなかったローマの兵士だったのである。ローマ兵にしてみれば、イエスの死を偽ることに何の利益もない。それどころか、彼が死んでいる方が職務を全うしたことになり好都合であったろう。だから、イエスの死は確実であったと考えて問題ないだろう。

聖書には続けてこう書かれている。「彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」(同40~42節)彼のもっとも身近にいた弟子たちが四散したその後でも、まだ彼を慕う人々が残されていた。彼らはこれが最後の奉仕とばかりに、師の亡骸を丁寧に埋葬した。ユダヤ人の習慣に従ってというからには、それなりの手間と時間を掛けてのことだったろう。おそらく彼の埋葬は確実なものであったに違いない。墓場に放置ではなかった。

「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。……弟子とのところに来て、言った。『だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。』」(同20章1~2節)イエスが埋葬されてから三日目、イエスの墓に行ってみると、丁寧に埋葬されたはずのイエスの亡骸がなくなっていた。律法学者たちが遺体を盗んだのか、それともローマ政府が処分してしまったのか。真っ先にそのような疑いを持ってしまったようだ。

だが、実際はどうか。「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(同19~20節)なんと死んで、葬られたはずのイエスが、遺体がなくなったと思われたイエスが、再び集まっていた弟子たちの間に姿を現したのである。その体には傷があり、まさしく十字架につけられたイエス・キリストご自身であった。新しい体を得たのではなく、死んで葬られた、まさしくその人であった。復活祭とは、よみがえって今日なおも生きておられる救い主を覚える日なのである。