パンと杯

私の通う教会でもそうだが、私が知る限りどこの教会でも、教団や教派に関係なく、その手順に若干の違いこそあれ、聖餐式を必ず守っている。まだ私がアメリカに居た頃のことだが、ある日曜日のこと、ガムを噛みながら礼拝に出ていたことがある。いつもはそのようなことはなかったのだが、たまたまその日は眠かったのか何なのか、今となっては理由を思い出すことはできないが、礼拝が終わるまでガムを噛み続けていた。ところが、すっかり私が忘れていたのか、それともまるで意識していなかったのか、始まる時までその日が聖餐式であることに気付かないでいた。なので、ガムを捨てる機会を失ってしまった。

さて、ガムを口に入れたまま、私のところに回ってきた「キリストのからだ」の象徴であるパン(ちなみにその時はパンではなく、スープに入れるようなクラッカー)、さすがに受け取らずに過ごすのもためらわれたので、まずは取ることにした。全員に行き渡ったところで、口に入れることになったのだが、ひとまず口の片側にガムを寄せて、反対側でクラッカーを噛んでみた。だけど、どうもうまくいかない。ガムのようにふにゃふにゃとした柔らかいものと、クラッカーのようにパサパサと乾燥した脆いものを同時に口にした状態で、それぞれを別に扱うなどと器用なことは無理だった。小さくなったクラッカーのかけらがどんどんガムに吸い寄せられて、いつの間にやらガムとクラッカーはひとつの得体の知れぬものになってしまった。それでも噛み続けると、今度はクラッカーと混ざったおかげでガムが小さな断片に分かれやすくなってきたようで、しばらく後「キリストの血」の象徴である杯が回ってくる頃には、ようやく口の中からガム諸共になくなってくれた。

ちなみにガムが発明されたのは19世紀のことだそうだ。当然ながら聖餐式の歴史はもっと古い。その始まりは、イエス・キリストが裏切られて、律法学者や祭司たちに捕らえられてしまう日の最後の食事がそれだった。いわゆる「最後の晩餐」というものである。

イエスは弟子たちと食卓に着いた時、こう言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」(ルカの福音書22章15~16節)

この時すでに、イエスは何が起こるのかを知っていた。知っていながら、彼が望んでいたのは弟子たちと共に過越の食事をすることであった。他にも色々と望むことができたかもしれない。それこそ、最後の最後まで、神の国の訪れを人々に教えることができたかもしれない。しかしなぜ、過越の食事をすることを強く望んでいたのか。それも群衆と共にではなく、もっとも身近な弟子たちという、内輪だけで。今までのイエスとはちょっと様子が違うようにも思われる。

イエスは食卓で「杯を取り、感謝をささげて」(同17節)このように言っている。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(同17~18節)また「パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて」(同19節)こう言った。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」(同19節)そして「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』」(同20節)

イエスは二度も自分がこの地上で過越を祝うのはこれが最後であると言っている。そして彼が次に過越を祝うのは、神の国が訪れた時であるとも、やはり二度言っている。同じことを二度までも繰り返しているということは、それだけ弟子たちに聞いてもらいたかったからであろう。

ところでイエスにとってはこれが地上で最後の晩餐となるが、弟子たちにとってはその限りではない。弟子たちはこの後も食事をする時があれば、過越を祝うこともある。であればこそ、それをどのように過ごすべきかという手本を、イエスは示そうとしたのだろう。パンを取って、感謝をささげて、自分で食べるのではなく、弟子たちに与えるために裂いた。それは「あなたがた(人々)のために与える、わたし(キリスト)のからだ」を意味するものであり、イエスを覚えて、この後もそうするようにと教えている。食後の杯についても同様であった。イエスにとって杯とは「あなたがた(人々)のために流されるわたし(キリスト)の血」を意味するものであった。

イエスは弟子たちと単に親密な時を過ごしたかっただけではなかった。むしろ、弟子たちにパンと杯が何を意味しているかを教え、そしてそのことを人々に伝えていって欲しいという願いがあったに違いない。果たして弟子たちがイエスのことばをどれほど理解できたかは分からない。しかし今日でもイエスが教えた通りに、パンと杯の意味が伝えられ、それが聖餐式という形が続いていることから、弟子たちは言いつけを守ったことは確かだ。

そしてイエスが再び過越を祝うその日まで、聖餐式は続くだろう。