誰が一番偉いのか

イエス・キリストが最後の食事の場において、最も身近な弟子たちに、今日まで続いている聖餐式の意義を教えたその後のことである。弟子たちは彼らの師であるイエスの話を聞いて、その意味について真剣に考えたり、その内容について話し合ったかであろうか。この箇所を読んで分かることは、彼らは宮殿で人々が大勢集まる中でイエスの話を聞いていたわけでもなければ、夜の静けさに包まれる荒野で彼らだけがイエスと共に休もうとしている時にイエスが語るのを聞いたわけでもない。過越の食事をしているときに、この話を聞いたのである。さすがに彼らがぶどう酒を飲んでべろんべろんに酔っていたとも考えられないが、酒に酔わなくとも雰囲気に酔うということはあるだろう。それこそ年に一度の祭の時の食事とあれば、さすがに彼らも今で言うところの、テンションが上がっていたかもしれない。イエスの言うことも耳にしたとしても、あまり真面目には考えていなかったようである。

それというのもその時の彼らの話題は、果たして誰が師を裏切るかということと、彼らの中で誰が一番偉いかということであった。前者はイエスが「見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」(ルカの福音書22章21節)と言ったことに理由があるのは分かる。しかしなぜ後者の話題になったのかは、分からない。これは私の憶測でしかないが、誰かがイエスを裏切るということは、すなわち彼らに対して仇をなす者が出てくるということである。だとすれば、その反対に彼らの中でもっともすぐれた者がいたとしても、不思議なことではないだろう。人というものは、何かと他人と比べたくなってしまうものである。弟子たちとて、イエスと出会うまでは普通に生活してきた人たちである。そのように考えたとしても、仕方のないことであろう。

それにしても「誰が一番偉いのか」ということを、気にするのは弟子たちだけではない。古今東西、人が集まるところでは、このことを考えずにはいられないように思われる。なぜなのか。もしや一番偉いのは誰かを知ることで、その人を尊敬し崇拝し、またその人に仕えたいと思うからであろうか。いや、人というのは、そんな純粋な存在ではないような気がする。人はこの質問をすることによって、他人と自分とを比較し、優劣を付けることで、あの者よりはまだ自分の方が偉いのではないか、そのように考える傾向にあるのではないだろうか。

つまり人はこの問いかけをすることで、誰が偉いのかを知りたいのではなく、どちらかと言えば、自分の方が偉いということを暗に言いたい、そのような思いがあるのではないか。もちろん、何かの根拠があるわけでもない。ただ私がそう感じているだけであるが。

弟子たちは、そのように議論することで、自分がもっともイエスを裏切る可能性が低く、またもっとも優れた弟子である、そう認めてもらいたかったのではないだろうか。まるで弟子たちを私のような下卑た者と同じように扱ってしまうようで、実に申し訳なく思うのだが、どうも弟子たちがこのように議論している箇所を読んでいると、そのように思えてしまうのだ。私が間違っていれば、その方が望ましいのだが。

さて弟子たちがしょうもないことで議論をしている様子を見て、イエス・キリストはこのように言っている。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」(同25~27節)

これは弟子たちに対する戒めのようでもある。王のように人々を支配するのでもなく、人々の上に立って権威をふるうのでもない。すなわち人々から仕えられる立場になってはならないということである。それどころか、その反対であることが望まれており、人に仕える立場に自らを置かねばならないということである。そしてその理由は、イエス・キリストご自身がそのようにしてきたからである。たったそれだけのことだ。

さらにイエスは続けてこう言っている。「あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(同28~30節)

しかし、いつまでも仕えるだけというわけではない。弟子たちがこの地上にいる間は、主であるイエス・キリストを模倣することで、神の国の福音を伝えていくことが彼らに与えられた役目であるが、神の国に入った後には、彼らには再びイエスと一緒に食事をし、イエスと共に王座に着くことが約束されているのである。信仰を守ることで、天に宝を積むというのは、まさしくこのことなのだろう。