絶対ない

絶対ない、ありえない。そのように始めから何かを決めつけるかのようなものの言い方は良くないとは、広く言われていることであろう。とは言え、世の中には可能性がゼロではないにしても、限りなくゼロに近い物事はそれなりにあるだろう。ところで私のヘンな趣味のひとつに、そのような限りなく「ありえない」ようなことがもし起こったらどうなるだろうか、と考えることがある。まぁ、しょうもない妄想だと思って構わない。

例えば、先日実家の庭木の剪定を手伝いに行ったのだが、ゴミに出し易いようにと、切り出した太い枝から細い枝を掃っていると、手にしていた枝がだんだん棍棒みたいになってきた。そんな自家製の棍棒を見ていたら、ふとこんなことを考えてしまったのだ。もし、今ゾンビが襲ってきたら、この棍棒で戦うことができるだろうか、なんてことを。いや、ゾンビがどれほど強いのかまったく見当もつかないが、さすがに木の棍棒でぶっ叩いても、たいしたダメージを与えられそうにないような……ここはやはり、棍棒に釘とか何らかの金属片を打ち込んで、もっと打撃力を上げた方がよいだろうか。でも、釘が抜けちゃったらどうしようか、そうか、穴を開けて、ぶっといボルトを通してナットで固定すればそんな心配もないか……いや、そもそもゾンビなんていないじゃないか、なんて夢の無いことは考えない。ゾンビを見たことがないだけであって、だからと言ってゾンビがいないというわけでもないだろう。なんてことを考えてしまうのだ。わずかでも可能性があるとすれば、それが限りなくゼロに等しいものだとしても、「絶対にありえない」とは言い切れまい。

さて、私の妄想はこれくらいにして、ルカの福音書に話を戻そう。しばらく前から最後の晩餐における、イエスと弟子たちとのやりとりを見てきた。前回のところでは弟子たちが

悪魔によって試されるとイエスが言われたが、それを聞いてイエスに名指しされた弟子のシモンは、主に対してこう答えた。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカの福音書22章33節)

彼ら十二人のうちの誰か一人がイエスを裏切ることになると、イエス・キリストご自身が話したことを考えると、シモン・ペテロのこの言葉の裏には、ひょっとしたら彼のこのような思いがあったのかもしれない。「私は絶対にイエス様を裏切ることはしない。そんなことは、絶対にありえない。」

もちろん聖書にはそのようなことは書かれていないから私の推測でしかない。しかしながら、まだイエスが伝道を始めたばかりの最初の頃に声を掛けられて以来、ずっとイエスの身近で過ごしてきたペテロの立場を考えれば、このような自負があったとしても不思議なことではない。

また、ペテロの言葉を聞いた他の弟子たちにしても、さすがはペテロだ、と思ったかもしれない。おそらく十二人の弟子の他の誰よりも、イエスと共に過ごす時間が多かったであろうペテロである。他の弟子たちの目から見ても、彼が師を裏切るということは、想像すらできなかっただろう。もし彼らにどう思うかと聞くことができたら、おそらく彼らはこのように答えるかもしれない。「まずペテロに限ってはイエス様を裏切るようなことはしないはずだ。」言うなれば、ペテロは自他共に認める、模範的な弟子であったろう。

では、自信たっぷりのペテロのこの発言を聞いて、イエスは頼もしく思っただろうか。聖書にはその時のことがこう書かれている。「しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」(同34節)

つまり、こういうことだ。イエスと一緒にいるためであれば、牢屋に投げ込まれようが殺されることになろうが、それでも構わないとまで宣言しておきながら、一緒にいることを拒否するどころか、イエスと自らの関係を完全に否定するというのだ。それも一度ならずも三度までも。さらに、いつかの話ではなく、日が明ける前までという、極めて近い将来に。

これを聞いたペテロはどう思っただろうか。主役がイエスの聖書には、弟子のペテロがどう思ったかまでは書かれていない。これも想像するしかないが、彼の頭の中は真っ白になり、冷や汗が止まらなかったのではないか。彼自身の(どこまでもイエスに従うという)自負心と、主の(ペテロがイエスを否定するという)ことばとに挟まれて、どのように考えてよいのか分からなくなってしまったのかもしれない。自分自身に対して疑念を抱き、失望を感じたかもしれない。おそらく暗く沈んだ気持ちになったかもしれない。

イエスの最も身近にいたペテロでさえ、自らの期待や理想とするものとは反対に、イエスから聞きたくないことを告げられてしまったのである。人の信仰というものについて、果たして絶対などと簡単に言ってよいものだろうか。この世で絶対と言えるものは、信仰する側の人間ではなく、信仰される側の神であろう。人の神に対する信仰は恐れや不安に影響されやすいものであるが、神の人に対する慈愛は「絶対」なのは、感謝なことである。