三度まで

「あなたは信仰を捨てることができるか。」もしこのように聞かれたら、私は何と答えるだろうか。おそらく私はこう答えるだろう。「いや、信仰を捨てることなどできない。」

しかしながら、そう答えたからと言って、必ずしも私が信心深いかと言えば、そういうわけでもないように思われる。それというのも、信仰を捨てる必要もなければ、信仰を捨てたいという特別な理由があるわけでもないから、信仰を捨てないだけだからだ。どちらかと言えば、消極的な理由でしかない。もしくは、神の存在しない世界など考えることができないほどに、信仰が当然のものになっているからとも言えるかもしれない。先に挙げた理由よりは、少しは真面目な理由かもしれないが、やはりこれもどちらかと言えば消極的であることに変わりはないだろう。いずれにしても、私の信仰が受け身に近いものであることが分かってしまいそうなものである。私が信仰を持ち続ける理由は、私が神を熱心に求めているからとか、神のみことばである聖書に従って生きようと願っているからとか、そのような積極的な態度ではない。

もし私が、キリスト信仰が迫害に遭う時代に生きていたとしたら、おそらく私は簡単に転んでしまったことだろう。なんと言われようと、自分の生命や財産が大事だからだ。もちろん信仰をないがしろにするつもりはないが、信仰なんてものは心の内側のことだから、ひとまず口先だけでも信仰を捨てることにした方が賢明だろう、と適当な言い訳を考えるに違いない。命あってこその信仰ではないか、とそれっぽいことを言うだろうが、要するに我が身が一番なのである。結局は、神に対する思いよりも、自身に対する思いが強いだけなのである。これでは、完全な信仰であるとは言えまい。

考えてもみれば、人間とは意志の弱いものである。信仰があると思っていても、いざとなると本心が表れてしまうものだ。イエスの弟子たちですらそうであった。例えばイエスを裏切ったユダはどうであろうか。彼がいわゆる不信仰な人間であったとは思えない。信仰がなければ、そもそも弟子には選ばれなかったであろう。ただ彼の信仰は、彼自身の欲望、ここではイエスを祭司長たちに引き渡すことで得られる金銭ほどの影響を彼には与えなかったということである。またイエスの身近であったペテロもそうである。つい数時間前までは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言っていた本人である。

聖書にはこのように書かれている。「彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。」(ルカの福音書22章54節)

この時はまだイエスに従おうと考えていたのかもしれない。弟子たちにはイエスが捕らえられた時に、すぐに逃げ出してしまった者もいたであろうが、彼は逃げ出さなかった。まだ彼の覚悟は確かなものであったと言えよう。

大祭司の屋敷でのことが、このように記録されている。「彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。『この人も、イエスといっしょにいました。』ところが、ペテロはそれを打ち消して、『いいえ、私はあの人を知りません。』と言った。」(同55〜57節)

なんということか、ペテロはイエスに従うどころか、イエスを知らないと言ったのである。しかし、一度だけであれば間違いということもあるかもしれない。

ところが、その後のことはこのように書かれている。「しばらくして、ほかの男が彼を見て、『あなたも、彼らの仲間だ。』と言った。しかし、ペテロは、『いや、違います。』と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、『確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。』と言い張った。しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません。』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。」(同58〜60節)

イエスが言った通り、ペテロは三度までもイエスとの関係を否定したのだった。自分が捕らえられることを恐れたのか、それともイエスを何としても救い出すためのその場を取り繕っただけなのか。理由はともかくとして、イエスよりも自分自身を優先させたことに違いはないだろう。ペテロでさえも、イエスに背を向けてしまったのだ。

聖書はこう続けている。「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(同61〜62節)

イエスとの関係を三度否定した時、イエスと目が合ったペテロは、はじめて自らのしたことに気付いたのだった。ペテロは激しく泣いた。その涙が何であったのか、そこまでは聖書には書かれていない。悲しみの涙なのか、それとも後悔の涙なのか。しかし、逃げ出さずに自らの過ちと向き合った結果としての涙は、ペテロが再びイエスに思いを向けたことの証しでもあろう。