二択

果たして信仰というものや信心というものに、優劣をつけることはできるのだろうか。できるような気もするし、できないような気もする。正直、私には分からない。しかし、もし優劣をつけることができるのならば、私の信仰心というのは、おそらく粗末で低劣なものであろう。なんせろくに祈らないし、ほとんど聖書を読まない。おまけに礼拝にはしぶしぶながらに参加というありさまである。これでは、模範的でもないし、あまり人に、いやそれ以上に、神様に見せられたものでもない。なんというか、実に申し訳ない。申し訳ないと思っているなら、少しは改善の努力をすれば良いのだろうが……どうも、そういうわけでもない。いやはや、これではどうしようもない奴だと思われても仕方がない。

それならば、私に信仰がないかと言えば、そうとも言えない。矛盾していると思われてしまうかもしれないが。理由をあげるなら、私は神の存在を信じて疑わないし、イエス・キリストが救い主であることも確信しているからだ。ただ私の行いが私の思いに伴っていないだけである。言い訳がましく聞こえてしまうかもしれないが、それだけ神の存在が私にとって当然のものになっているからなのかもしれない。たとえて言うならば、空気や水が当たり前すぎて、その重要性やありがたみをあまり意識をしないのと同じようなことかもしれない。もしくは妻に対して、料理がマズイだの文句ばかりを言ったり、失敗を馬鹿にしたりすることはあっても、花を買って贈るのなんてせいぜい誕生日くらいなものであるというのも同じ理由かもしれない。やはり妻が私にとってそこにいて然るべき存在であって「特別」という意識が薄れているからなのだろう。ましてや、私と神の付き合いは四半世紀にもなろうかというのだから、その存在に鈍感になってしまったに違いない。

さて、自分自身のそのような姿を省みながら信仰に優劣をつけるのであれば、その基準となるのは私の心の内側の在り方というよりも、心の中の思いに従ってどのように行動をしているかということになるのではないだろうか。だとすれば、もしかしたらそれは信仰の優劣ではなく、信仰に基づいた行いの優劣になるのかもしれない。どちらも似ていると言えば似ているし、違うようだと言えばそうかもしれない。どうも境目が曖昧なように思えてならない。

信仰はあるけれども、必ずしも信仰に従って理想の生き方をしているわけではない。だから、私の信仰は劣っている。いや、そう言い切ってしまうのは、やはり何か違うような気がする。というのは、やはりただの言い訳なのか。

さて、ルカの福音書に話を戻そう。イエス・キリストは犯してもいない罪に定められ、罪人として十字架を負わされ刑場へと連れて行かれた時のことだ。「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」(ルカの福音書23章32〜33節)

イエスはひとりではなかった。もっともこの状況であってはひとりだろうが、他に誰かがいようが、さほど重要ではなかったろう。この三人は死刑にされるという運命を共にしていたわけだから、三人揃ったところでその状況を変えることなど誰にもできなかったであろうし、慰めにすらならなかっただろう。生き永らえることを諦めて、ただ黙々と自らの死を待つだけだった。

今まで弟子たちと共に過ごし、多くの人々から敬われていたイエスであるが、最期に彼と共にいたのは死刑に処される二人の犯罪者であった。聖書にはこう書かれている。「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』」(同39〜41節)

この二人がどのような罪を犯したのかは分からない。謀反人であり人殺しであるバラバと一緒に死刑にされる運命にあったことを考えると、おそらくそれに似たような、少なくとも人を殺したことがあるような者たちだったのかもしれない。だが、イエスと一緒に最期を迎えて、二人の態度は正反対とも言えるほどに対照的だった。一人はイエスを罵り、求めているのはあくまでも自分自身が自由になることだった。しかし、もう一人は自らの罪を認め、そのための罰を覚悟しつつ、イエスには自分と違って罪がないと認めている。さらにこの人はこう続けている。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(同42節)

十字架に付けられていた彼には、身体的な自由も時間的な余裕も皆無だった。もちろん信仰に従った行いなど彼には不可能だったに違いない。ただ彼はイエスを信じただけだった。そんな彼にイエスはこのように約束している。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(同43節)

やはり結局のところは「信じる」か「信じない」かの、いずれかなのかもしれない。