百人隊長の直感

今更言うまでもないことだろうが、私は素直な人間ではない。どちらかといえば、疑い深い人間である。さすがに身近な人たちの言うことを疑うことはあまりないとは思う。しかし関係のない他人の言うことは、疑って掛かることがほとんどである。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、それらのことをじっくりと吟味して、そうしてはじめて納得できてから、ようやく受け入れるに値するものとして認めるのである。嘘か真か白黒はっきりすることができずに、なおかつ確たる根拠がないものについては、たとえ人が良いといっても、それを受け入れることはまずない。

考えてもみれば、そんな私がイエス・キリストを受け入れて、信仰を持つに至ったとは、自分で言うのも何だが、まさしく奇跡というようなものであろう。イエス・キリストを受け入れたその時まで、私はイエスを見たことがなかったし(当然今でも見たことはないが)、イエスが話すのを聞いたこともなかったし(やはり、今でも聞いたことはないのだが)、イエスのことを吟味するに足る十分な材料があったというわけでもなかった。もっとも信仰を持つようになってから考えてみれば、私のようなちっぽけで、足りないところだらけのつまらない一介の人間が、神の子であり救い主であるお方を吟味しようなどとは、おこがましいことこの上ない。

それにしても、もしイエスの姿を実際に見て、彼が語るのを直接聞くことができたとしたら、私は彼を神の子として信じることができたであろうか。もしかしたら、できたかもしれない……とは言っても、本当にどうなのかは分からない。

ところで、ルカの福音書にはイエスが十字架につけられた様子を見た人たちのことが、このように書かれている。「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。」(ルカの福音書23章47節)

百人隊長はイエスのことなどあまり気に掛けたことがなかったに違いない。イエスが何者なのか、考えたこともなかっただろう。なんと言っても彼はユダヤ人ではなく、ローマ人であったからだ。さらに彼はローマ軍の兵士であり、兵士たちのうちにあって地位も名誉もある立場の者であった。ユダヤ人の群衆に混じって、イエスの話を聞く機会などはなかっただろう。もしかしたら警備の兵士を指揮するために、遠くからその姿を見たり声を耳にしたことがあったかもしれないが、彼にとってはどうでもよいことであったろう。それに、ユダヤ人の内輪揉めに等しいような今回の出来事には辟易していたかもしれない。

しかしそのようなローマ軍の指揮官の目から見ても、「全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(同44〜46節)という様子は尋常なものではなかった。もしかしたら、その職務ゆえ彼は今まで幾人かの人々の死を見てきたかもしれない。しかしそのいずれとも今回は様子が違ったのだろう。百人隊長が何をどう感じたのかは書かれていない。しかし彼はイエスが特別な人物であることを直感したのだ。

またこのようにも書かれている。「この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。」(同48節)

集まっていた群衆の多くはユダヤ人たちであったろう。彼らはイエスの死を悲しんで集まっていたのだろうか。いや、そうではなかったと思う。そもそも集まった群衆は最初はこう叫んでいたのではないか。「十字架だ。十字架につけろ。」(同21節)やがて彼らの希望通りになってイエスが十字架につけられると、「民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。」(同35節)まさしく彼らはイエスを十字架につけた張本人ではないか。イエスを軽んじていたはずなのに、最後にイエスが死んだ後になってから、悲しんだという。なんとも無責任であり、自分勝手である。残念なことに、これが現実であった。どれほど彼らが悲しみ、悔やんだところで、すでにイエスは彼らが望んだように十字架につけられ殺されてしまったのだ。時すでに遅し、である。

イエスの姿を見て、その話を聞いていたであろう人々が、最後の最後までイエスを認めようとしなかった一方で、それまでイエスのことを気に掛けなかった異国人が最後の瞬間にイエスを認めたのである。皮肉と言うか、何と言うべきか。イエスを見たからと言って、また彼が語るのを聞いたからと言って、必ずしも人は彼を神の子として認めるわけではなかった。しかし一方で、わずかに彼と接しただけでも、彼を神の子として認める人もいたのも事実である。結局最後は、その人の意思によるのだろう。

それにしても、なぜ疑い深い私がまだ会ったこともないイエスを信じることができたのだろうか。やはり直感だったのか。いや、私の場合はイエスを吟味したのではなく、自分自身を吟味し、永遠のいのちを得るにはイエスが必要であると感じたからである。