マグロのように

今年も残すところ、後わずかである。振り返ってみると、慌ただしい一年だったような気がする。後半は、これを書いている余裕すらなかったほどに、何だかんだと忙しかったような。それでは、何をしていたのだろうかと考えてみても、これをやっていたから忙しかったとか、あれをしていて時間を取られていたとか、一つひとつ具体的なことを挙げることができない。出張が多く、仕事も忙しかったというのも事実であるが、それだけではなかったような気がする。何かに追われていたのか、それとも何かを追っていたのか、いずれにせよ只々慌ただしく過ごしていた。暮れもこの時期になりようやく落ち着いてきたようだ。もっともこの平安も今だけのことであろう。年が明けたら、また忙しく過ごしているに違いない。慌ただしい日常は、今しばらく続きそうな気がする。

そのようなことを考えていたら、自分の姿がマグロのように見えてしまう。いや、刺身になって皿の上に並べられているマグロではなくて、回遊魚としての生きているマグロの方である。海にいるマグロは泳ぎを止めると死んでしまうから、寝ている間でさえも泳ぎ続けなければならないという。もちろん、マグロみたいに動き続けていたいわけではないし、そもそも体がもたない。地上で暮らす人間が寝る間も惜しんで動き続けていては、体調を崩すか、悪くしたら死んでしまう。さすがに寝ている間は体を休めることはできるが、目が覚めている間は常に何かに追い立てられているような気がするのだ。寝ている間は別としても、起きている間は私自身の思いにかかわらず常に動き続けていないといけない、そんな自分がなんかマグロみたいだなぁ、と思うのだ。

いや、誤解されないように言っておくが、何もマグロのような自分の境遇を嘆いているわけでもなければ、文句を言っているわけでもない。とは言っても、何も満足しているわけでもないし、納得しているわけでもない。それでは、諦めているとでも言うべきか……いや、それもちょっと違うか。さほど悲観的な感情もない。言うなれば「私の人生において、今はそういう時期なのかもしれない。いつまでも今の状態が続くわけでもないだろうし、いつかは良い方に向かうだろう」と悟りを得たようなものであろう。達観したと言えば、そう言えなくもないかもしれない。

それにしても改めて考えてみるに、このような状況にあっても体調を崩すでもなく、日々全てが満ち足りているとまではいかなくとも、まずまず現実を受け入れて過ごすことができているのは、やはり神の恵みと憐みによるものなのだろう。もちろん、それを示す証拠などはない。なんせ神は、目で見ることもできず、耳で聞くこともできなければ、手で触れることもできないのだから。しかしながら、誰かが私を支え、助け、その庇護のもとに置いて下さるとしたら、神を置いて他にあろうか。

さて私が願うことを十とすれば、今の私が得られているものはそのうちの七だろうか……いや、五かな?それとも、三くらい?もしかしたら、それ未満?正直、分からない。ただ確かなことはゼロではないということだ。ゼロは何倍にしてもゼロのままだが、一でもあれば、それは何倍にでも増やすことができる。神が一つでも私に与えてくれるものがあれば、それを感謝しよう。

もし私にとってのこの一年を締めくくるに相応しい聖書の箇所を挙げるとすれば、思い浮かぶのはここである。

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第二コリント4章15〜18節)

神が私たちのためになさったことを思うとき、神に感謝する理由を見つけることはできても、神に感謝しない理由は何一つないだろう。神の栄光は、感謝のうちにも現れる。