人生の目的?

神がなさった良いこと。今ひとつは、生きることに目的を与えてくださっていること。

なんて言ってしまうと、神が私に「人生の目的」を与えてくださった、という意味に取られてしまうかもしれないが、実際はそれとはちょっと違うような気がする。では、どう違うのか聞かれたら、一言で説明するのは難しいが、一人の人間の一生の規模で考えるような、さほどに大げさなものではないように思う。

そもそも「人生の目的」というものは、字面が表すほどに簡単なものではないと思う。だいたい「人生の目的」なんて言ったところで、自分自身でそれが何であるかと、はっきりと分かっている人なんて、果たしてどれほどいるのだろうか。正直、私だって「私の人生の目的とはこれだ!」などと言える自信はまったくない。例えばであるが、もし私が「お金持ちになる」というのを人生の目的に挙げたとしたらどうだろうか。冷静に考えてみれば「んー、やっぱそれは無理だわ」という結論に達する。いや、お金に興味がないわけではないし、むしろお金は欲しいぞ。だけど、それを人生の目的にしてしまったら、それを実現するために、何かしらの努力をしなければいけないだろう。では、それだけの商才が備わっているかと言えば、残念ながらそれはない。一発何かをやってやろうというほどの気概もない。せいぜい地道に働いて給料を稼ぐくらいしか能がない。残念なことだが。

つまりこう言うことになるだろう。人生の目的なるものが存在するとしたら、その目的を持つ人は、生涯を通じてその「目的」に縛られてしまうことになるのではないか。それが「好ましくないもの」や「悪いもの」であれば、極端な言い方にはなってしまうが、悪を達成するために悪を重ね、挙句にその人の一生は悪で染まってしまうやもしれぬ。しかしそうではなくて、もしその人にとっての人生の目的が「好ましいもの」や「良いもの」であれば、必ずや人の一生は善を積み重ねてすばらしいものになるであろう……と思いたくなるが、案外そういうものでもないかもしれない。

なぜなら、人が自分で決めた「目的」で自らを束縛してしまうことが、一番の問題なのである。聖書にはこのように書いてある。「主はこう仰せられる。『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。』」(エレミヤ書9章23節)たとえ「人生の目的」が、どれほど崇高な志に基づいていたとしても、それが人から出たものであれば、もちろんそれは悪いものではないだろうが、結局のところ人の思い以上の価値はないのである。もし人の思いが絶対であれば、それで問題はないだろうが、実際はそうではなく、人は自らの知恵も力も富も誇ることができない存在なのである。

また、このようにも書いてある。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。」(同24節)すなわち人が誇れるものは、この世で慈愛をもって公正と正義を実践する神を知っているという一事なのである。

そのような神がおられることを知っているなら、わざわざ自らの浅はかな知恵で、自身の一生を縛るような「目標」を立てる必要などないことが分かるだろう。

神はこのように仰っているではないか。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(同29章11節)人が生きていることの目的に疑問を抱き、それが何であるかと思いを巡らす時、そこで悩む必要はないのだ。なぜなら、すでに神が私たちのための計画を備えてくださっているのだから。それは神の絶えることのない善意によるものであり、私たちに未来と希望を与えるものである。

さてそれが具体的に何であるかは、それは神とその人としか分からないだろう。だが共通して言えることは、神を信じ、神に頼み、神にあって喜びを持つことであり、それは日々わずかな時間でも可能なことではないだろうか。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。……しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」(詩篇32篇8、10節)