大きいのは神か、それとも宇宙か

神がなさった良いこと。今ひとつは、人に知恵を与えてくださっていること。

いや、変な誤解をされたり、妙な期待をされたら困るので、念のために言っておくが、神が私に知恵を授けたからといって、私が天才になったとか、頭が良くなったとか、そういうことではない。実に残念なことではあるが。まぁ、考えてもみれば、もし本気で賢くなりたいと願うなら、これは神にすがるだけでは十分ではないだろうし、それなりに努力もしないといけないのだろうと思う。確かに神は良いお方であり、求める人々には惜しむことなく与えてくださることに疑いはないのだが、だからと言って人を甘やかすようなこともされないだろう。

さて賢くなったわけではないから、私にはまだまだ分からないことが多い。例えばの話をしよう。じめじめとしたちょうど今くらいの時期は空気が霞がかっているためか、仮に雲一つなく夜空が晴れ渡っていたとしても、星を見たとしてそれはわずかであろう。ましてや、私の住むところは高い山の上でもなければ、街の灯りから遠く離れた自然の中でもないから、なおさらである。ところでまだ空気が乾いて澄んでいた時期、横浜よりは標高もあり、街の灯りも微かな栃木の小さな街に出張で滞在していた頃、晴れた夜空を見上げたら、横浜で見えるよりも多くの星を見ることができた。さて、そこで私の頭にはこのようなことが思い浮かんだ。我々の住む地球の属する銀河系には一千億以上の恒星があり、観測可能な宇宙にはそれと同じくらいの銀河があるという。もはや私の頭では理解できない規模であり、想像すら及ばない。ただ宇宙の大きさに圧倒されるのである。

そこまで考えて、それらを創造された神の偉大さを素直に認めればよいのだろうが、中途半端に頭を働かせてしまうので、このような疑問が出てくる。「果たして、この宇宙と、神と、どちらが大きいのだろうか?」

だがそんなことは、いくら考えたところで分かるわけがない。

しかし神は人に知恵を与えてくださったはずである。その知恵で答えを探ることができるのではないだろうか、などと思いを巡らしたところで、ふと気づかされるのである。目に見えない神と目に見える星々を比較することに意味はあるのだろうか、無限の神と有限の宇宙を同列に考えることに意味はあるのだろうか、と。

聖書にはこのように書いてある。「主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」(詩篇111篇10節)自分には神を理解することができない、神は自分の想像を超えた存在である、そのことに気付いて、神に恐れを抱くとき、それがその人にとっての知恵の始まりとなるのだ。選ばれた一部の人たちだけが知恵を得るというのではない。誰もが知恵を得ることができるのだ。ただ勘違いしてはならないのは、それは人に利益をもたらすためだけの知恵ではないということであろう。人が知恵を得ることで「主の誉れは永遠に堅く立つ」ことになるのだ。

これこそが神が人に与えてくださる知恵なのであって、人が自らを誇り、あたかもこの世の多くを知ったかのように思い、神を忘れてしまうような知識ではないのだ。神が与えてくださる知恵は、このように我々に教えている。

「主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。」(同2節)

「そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。」(同3節)

「主は情け深く、あわれみ深く、主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。」(同4~5節)

「御手のわざは真実、公正、そのすべての戒めは確かである。それらは世々限りなく保たれ、まことと正しさをもって行なわれる。」(同7~8節)

「主は、御民に贖いを送り、ご自分の契約をとこしえに定められた。」(同9節)

この世の知識は神に求めずとも、努力をすれば様々な方法で得ることができるだろう。しかし神の知恵は、神によって与えられるのだ。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブの手紙1章5節)

なお先ほどの答えだが、神の方が宇宙よりも大きい。宇宙には始まりも終わりもあるが、神にはそのいずれもなく、何によっても制限されることがないから。