捕らわれの身

神がなさった良いこと。今ひとつは、試練の時の脱出の道を人のために備えてくださっていること。

先日の朝のこと、職場の最寄り駅の改札を出て、駅と隣接する駅ビルとを繋いでいる通路を歩いていたら、目の端に何やら動くものの影を捉えた。はて、何であろうかと思い、目を向けると、大きな黒い揚羽蝶が天窓のところを飛んでいるのが見えた。どうやら、どこからか迷い込んでしまい、外に出られなくなってしまったようである。天窓の向こうには晴れた青空、そして風に流される小さな雲の固まり、どうやら蝶はガラスの向こうに帰ろうとしていたのだろう。だが、どれだけ羽を動かそうとも、そこから出ることはできないのである。あのままでは弱って通路の床に落ちて死んでしまうか、天井の隅に巣を張る蜘蛛に捕らえられて死んでしまうか、いずれにしても残念な最期を迎えることになるに違いない。

さて程度の違いこそあるだろうが、世の中の多くの人たちは、どこかで閉塞感を感じている、もしくは感じたことがあるのではないだろうか。日常の生活のなかで、ふと立ち止まって自分自身を顧みるときに、自分には何の悩みも不安もないし、先々まで明るい見通しが立っていると、何の疑いもなくそのように答えられる人は果たしてどれほどいるだろうか。むしろ人が立ち止まって思い起こすことは、自らが抱えている心配事や悩み事ばかりであろう。私などは人生を左右するような大きな問題こそないものの、日々小さな悩みの連続である。例えて言うならば、ボールプールの中にいるようなものであろうか。周りにあるボールの一つひとつが、問題であり、悩みであり、心配事であって、ひとつふたつと手に取って何とか解決して、遠くに放り投げたとしても、まだまだボールはたくさん残っている。ボールを掻き分けて進んでみたところで、ボールは私の後ろに回り込んで視界から去っただけで、消えてなくなったわけではない。そうこうしているうちに、誰かが外からボールを放り込んできたりする。もしかしたら、それが多くの人にとっての現実ではないだろうか。

では、どうしたらこのような閉塞感から抜け出すことができるのだろうか。神を信じれば、抜け出すことができるのだろうか。信仰者の立場から言えば、それがもっともな回答のような気もするが、経験から言えば、そうでもないような気がする。実際はそんな簡単な話ではないだろうと思う。人が信仰を持ったからと言って、人の問題処理能力が高くなったりするわけでもないし、その人の周りから問題が自然消滅的に消えていくわけでもない。人は人のままだし、問題は問題のままなのである。そこは何も変わらない。

では、神を信じることは何の解決にもならないではないか、と言われてしまうかもしれない。たしかに問題がきれいさっぱり片付いていくことを「解決」と呼ぶのであれば、その通りかもしれない。しかし問題にばかり目を向けて、心を悩ませることから解放されることを「解決」とするのであれば、どうであろうか。

聖書にはこのように書いてある。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(詩篇37篇23~24節)

つまり神は、神を信じる者の進む道を確かなものとされるお方であり、そのような神と共に歩むのであれば、たとえ転ぶことがあっても大けがをすることはないということだ。裏を返せば、こういうことにもなるだろう。神を信じたからといって、躓くこともなければ、転ぶこともない、ということにはならないということだ。もし人が、辛い思いをすることもなければ、痛い目に遭うこともない、あらゆる悩みや不安から解放されて、幸せな日々を送ることができるようになる、というような期待を持ったとしても、それは早々に裏切られるだろう。そもそも問題さえ無ければいいのではないかと、それは人が思いつく問題解決への最短距離であろう。

だが神は人の都合で動かされるようなお方ではない。すなわち神は問題を人から取り去るのではなく、問題の渦中にあっても抜け出すことができないほどの深みにはまることがないように、救いを差し伸べてくださるのだ。

まさに聖書には、このようにも書いてあるではないか。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10章13節)

問題はなくならない。しかし問題があるからこそ、人は神の救いを知ることができ、また挫けない心を得ることができるのだ。