からし種未満

神がなさった良いこと。今ひとつは、神は神を信じる者を見捨てないと約束してくださっていること。

さて聖書にはこのように書かれいてる。ある時、イエスの弟子たちが、なぜ自分たちには悪霊を追い出すことができなかったのかを聞いたときに、彼が答えたことばである。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイの福音書17章20節)

粒入りマスタードを見れば分かるように、からし種とはとても小さな粒のような種子である。その程度のわずかな信仰があれば、山をも動かすというような、人の考えからすれば、ほぼ不可能に思えるようなことでも為すことができる、とイエスは言っているようだ。それにしても解せないのは、イエスと四六時中一緒に過ごして、その教えることばを常日頃から聞いており、またその行う奇跡のわざを目の当たりにしていながら、なぜ弟子たちは「信仰が薄い」と言われてしまったのだろうか。もとより、彼ら自身にしても、イエスを信じていたからこそ、それまでの慣れ親しんだ生活を後に置いてまで、彼に付き従ってきたのではないか。そのような彼らでさえ、からし種ほどの信仰がないと言われてしまったら、果たして私のような中途半端な者の信仰とは、どのようなものであるかと疑ってしまう。

もし弟子たちの信仰がからし種ほどもなかったとしたら、それは芥子粒くらいの信仰だったのだろうか。そうだとしたら、それにも足りない私の信仰などは、何に例えることができようか……しいたけの胞子くらい、だろうか?いや、それでもまだ大きいくらい?では、大腸菌か……まぁ、これより小さくなると、細胞を持たぬウイルスの類になってしまいそうで、こうなってしまうと比べる対象が、生物ですらなくなってしまう。

それにしても、果たして信仰というものの大きさを測ることなどできるのであろうか。改めて考えてみるに、信仰というのは目で見ることのできるものではない。目で見ることができないというのは、実体がないということになる。実体がなければ、大きさも重さも知りようがない。当然、自分以外の誰かに、それを見てもらうなんていうこともできるわけがない。自分で自身を省みて、判断するくらいしかできないだろう。

そうやって、自分自身の在り方を振り返ってみると、私の信仰心なんて、やはり良くてカビの胞子程度なのかもしれない。どんな時でも神のことを百パーセントの絶対的に信じているかといえば、そうでもない。

そもそも、自分自身の存在を百パーセント信じているかと聞かれたら、99パーセントくらいは信じていると答えるだろう。もしかしたら、私という人間は誰かの夢の中だけの存在なのかもしれないとか、私という人間は存在せず私という意識が私という人間が存在していると勘違いしていだけとか、コンピューターのプログラムの中の変数の一つでしかないとか、年に数回ほど自分の存在を疑ってしまうことがあるのだから、それほどに物事に対して疑い深く、素直には物事を受け入れられないような私にとっては、なおのこと、直接会ったこともなければ、その声も聞いたことも、その姿を遠目に見たこともないという、そんな不確かな存在である神を完全に信じているとは、言い難いというのが正直なところである。

ふと、こう考えてしまうこともある。もしかしたら、神もいなければ、天国もないというのが現実なのかもしれない。もしそうだとしたら、何を努力してわずかばかりの信仰を守ろうとするのか。いっそのこと、そのわずかばかりの信仰を捨ててしまった方が気楽になるのではないか、そんな考えが頭を過ぎることがないとは言い切れない。

しかしながら、そのような疑念を持つときには、心の中のどこかでこのような思いも生じるのだ。信じることをやめてしまったら、果たした私に何の価値があるのだろうかと。神があってこその、私なのである。そもそも神が最初に私に命を与えてくれたがゆえに、私は日々息をすることができるのではないか。それが現実であり、神がおられることがすべてのことの前提なのである。

モーセの時代、四十年荒野をさまよったイスラエルの民に、神はこう言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記31章6節)

からし種にも届かない、カビの胞子程度の信仰かもしれないが、それでも神は私を見放さずに、繋ぎ止めてくださるのだ。