幸せな人の習慣

神がなさった良いこと。今ひとつは、人が幸せになるための道を、神が備えてくださっていること。

何がきっかけなのかはまったく分からないが、時々何かの拍子に、自分は幸せなんだろうか、と考えてしまうことがある。そしてこれも毎度のことなのだが、そんなことを考えていると、では、幸せとは果たして何なのであろうか、という疑問も湧いてくる。幸せが何であるか、その答えは、今に至っても私には分からないままだ。おそらくいつまで考えてもその答えを見出すことはできないかも。結局のところ、幸せというのは明確な定義などないのだろう。人が幸せだと感じていれば、その人は幸せなのだし、反対に幸せじゃないと思っているのであれば、その人は幸せではないのだろう。その人がどう感じているか、それだけのことなのかもしれない。つまり、人を取り巻く環境や状況がその人を幸せにするのではなく、人が置かれている状況をどう捉えるかが人を幸せにもするし、不幸にもするのだろう。水が半分入っているグラスを見て、まだ半分残っていると考える人は幸せな人だろうし、半分もなくなったと考える人は幸せな気分にはなれないだろう。まったく同じ状況でも、それをどう捉えるかがその人を幸せを左右すると言うことか。

では、私はどう感じているのか、自らの状況をどう考えているのか。グラスの中身は確実に以前と比べてみると減っているし、さらに中を見てみれば残っている水には小さな埃などが浮かんでいて、あまり良い感じではないし、おまけにグラスには細かい傷が曇りがあって……んー、まぁ、いっか!細かいこと気にしたってしょうがないじゃん!まだまだ水はあるわけだし!そう考えることができる私は、きっと幸せなんだろうなぁ。

ところで、誰もが「幸せになる」ということに関心を持っているらしく、幸せな人たちの共通点とは何かを調べた人たちもいるようだ。例えば、幸せな人たちは①人との関係を大切にする、②お金よりも時間、③でもある程度のお金も持っている、④日常の小さなことに感謝の気持ちを持つ、⑤人のために何かをする、⑥程よく体を動かす、⑦モノより経験や体験、⑧過去や未来にとらわれない、⑨親しい人と時間を過ごす、という具合だ。他にもいくつかあるようだが、概ね似たような感じではある。

これを見て、ふと気づいたのだが、どことなくキリスト者の生き方に似ているのではないかと。完全に一致しているというわけではないが、何か通じているものがあるように思えるのだ。

私なりの勝手な解釈になってしまうが、こう考えることもできるのではないか。

①信仰者は互いに集い、礼拝の時間を持つ。教会とは、様々な人々が一つの目的のために集まることで成り立っている。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり」(ローマ人への手紙12章5節)

②教会への献金だけではなく、自らの持つ才能や時間を捧げる。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、……主に仕えなさい。」(同8、11節)

③お金は生きていくためには必要なものであり、税金を収めるなどの社会的な義務を果たすべきである。イエスも「カイザルのものはカイザルに返しなさい」(マタイの福音22章21節)と言っている。また必要なものは神が備えてくださる。(同6章31~33節)

④「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5章18節)

⑤善きサマリヤ人のたとえ話にもあるように、困っている人の善き隣人となること。(ルカの福音10章30~37節)

⑥イエスや弟子たちは座して人が訪ねて来るのを待っているだけではなかった。伝道の基本は、外に出掛けて行き、福音を伝えることにある。「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」(同9章6節)

⑦神はいけにえよりも、人が正しい心を持つことを望んでいる。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア書6章6節)

⑧過去のことも、未来のこともすべては神に委ねる。「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)

⑨人と接するときに、神が私たちを憐れみと慈しみをもって接してくれたことを忘れないようにしたい。「互いに忍び合い、……互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ人への手紙3章13節)

このように考えると、神が望んでいるような生き方をすれば、自然と人は幸せになれるのかもしれない。少なくとも、実践して損になることはないだろう。