Be Still

気付いてみれば、もう十二月。世の中では、師走と言われている時期である。師が忙しく走り回る時期だから「師走」である、と小学校の頃に習ったことがある。深く考えたことはないのだが、「師」が何を表すのかは、諸説あるらしい。ちなみに私は「師匠」の「師」だとずっと思ってきたのだが、今になって考えてみると、師匠が忙しく走り回るとは一体どういうことなのだろうかと、ちょっと想像しにくい図ではある。そもそも、師匠と言っても何の師匠なのかさえも不明である。とは言いつつも、師匠と呼ぶからには、何やら和風なものを想像してしまうのである。

しかしこの時期になるといつも感じることなのだが、一年というのはあっという間に過ぎてしまう、と。なぜなのか。おそらく毎日慌ただしく過ごしているせいなのかもしれない。ただひたすらに、目の前のことをこなしている。それだけで毎日があっという間に過ぎていく。振り返ってみても、何か大きなことを成し遂げたというわけでもない。むしろ何も達成せず毎日追われるように過ごしていたら、いつの間にやら一年の最後の月になっていた、そんな具合である。師走でなくとも、いやそれどころか何かの師でなくとも、常に忙しく走り回るように生きているのが、今の私なのかもしれない。

そんなわけで、いつの間にやら十二月、つまりクリスマスシーズンになったわけだ。不思議とそのような気がしないのは、何でだろうか。クリスマスを思い起こさせるような要素が身の回りにないからだろうか。いや、それはないだろうな。街の中はどこもかしこも、クリスマスの飾り付けがされているし、流れる音楽のほとんどはクリスマスをテーマにしたものばかりである。勤務先のビルのエントランスには大きなツリーが飾られ、事務所の中の鉢植えにはイルミネーションが飾られている。どちらの方向を見ても、クリスマス一色である。もはや、クリスマスから目を逸らすことはできない!と、それほどであるにも関わらず、どうもクリスマスらしく感じられないのである。本当にもうすぐクリスマスなんだろうか、とそう考えてしまうのである。

五感ではクリスマスであると感じているのだが、気持ちがそれに伴わないのである。心がどこかまだクリスマスに追いついていない、そういうところだろうか。

もちろんクリスマスは好きである。その意味するところが何であるかも、誰かに言われるまでもなく分かっている。だが、なぜクリスマスを感じることができないままでいるのか。それは、日常の様々なことに心を奪われいるから、ということになるのか。師走でなくとも、常に師走のように過ごしてきた。それだから、いざこの時期になっても、クリスマスであることを頭では気付いていても、心では感じていないのか。

もしそうであるなら、さてどうしたものか。

神はこう言っておられる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩篇46篇10節【口語訳】)

幸いなことに、今のこの時期、この世界の様々なものが、イエス・キリストがこの地上に誕生されたことを覚えて祝う時期であることを思い出す、そのためのきっかけになっているではないか。皮肉なものである。信仰者である私よりも、信仰のない世の中の人々の方が、クリスマスを盛り上げているというのは。彼らが意図しているところは、商業的なものであったり、世俗的な考えや個々の欲求を満たすためのものかもしれないし、間違ったクリスマスの認識をしているかもしれない。しかし、クリスマスを知る人には「今年もまたイエスの誕生日を祝う季節になった」と思い出させるに十分であろう。

私のように日々の雑多なことに追われて過ごしているような者には、立ち止まって、クリスマスの意味を考える必要があるのではないか。「主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。……万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。」(同9、11節【口語訳】)

私は誰かと争っているわけではない。むしろ私の争い(struggle)の相手は限りのある時間であり、大小様々な問題や課題であろう。争いの中にあるからこそ、手と足を止め、また心を静めて、神のなさったわざに思いを向けよう。特にこの時期、神が救い主であるイエス・キリストをこの地上に送ってくださったことを。