賢明な人の探し物

こないだスクラッチを買ってみた。久しぶりに、である。日頃から買っているわけではない、念のために言っておくが。1枚だと当たらないかもしれないと思ったから、複数枚買うことにした。5枚買えばひとつくらい当たるかもしれないと考えるわけだが、購入価格が千円になってしまう。さすがにちょっと勿体ない。そこで、しばし考える。1枚よりは当たる確率も高くしたいし、5枚よりは安く済ませたい、というわけで落としどころとして4枚買うことに決定。ひとまず一晩寝かせておく。翌日、小銭入れから選ばれし幸運の百円玉を取り出し、削ってみた。当たらねぇ!だが、そんなことで落ち込む私ではない。きっと次がある。ここでを運を使わなかったのは、より大きな幸運が待っているからさ。そう信じて、自分を励ました。

それから数日。会社の忘年会が開催され、恒例のビンゴが行われた。商品は、iPadの第7世代、NintendoのSwitchにSwitch Lite、米沢牛……その他、色々。そうそう、これこれ。これのためにスクラッチで運を使わなかったのさ。番号が次々と読み上げられる。が、一向に穴が増えない。とうとうリーチにもならないまま、終わっちまったじゃないか!サランラップすら当たらない!まぁ、それでもよい。あくまでもポジティブ考えよう。きっとiPadやSwitchよりも、もっと良いものが待っているに違いない。そして、それからちょうど一週間。タリーズコーヒーの缶についていたシールが集まったので、タリーズカード千円分に応募してみた。ちょっとした運試し。千円分のカードが4万名に当たる!これくらいなら行けるかも……と淡い期待をしたのだが、やっぱダメだ!4万人の一人にすら選ばれないよ!

なんてことか、どこまでも運がない。いや、諦めるのは早い。運を使っていないだけかも。まだ年内にチャンスは残されている。一番の大物、年末ジャンボ宝くじ!一等前後賞合わせて10億円だ!ミニですら、五千万円である。いよいよ、運が向いてくる時かもしれない。あ、でも、まずは宝くじを買わないと。でも、三千円は勿体ないなぁ。と思いつつ、今日に至るわけで。というか、そんな運なんかをあてにするのが、そもそもの間違いかも。

さて、年の暮れの今、世の中はクリスマスで盛り上がっている。しかし、世の中のクリスマスからは、何やら肝心なものが抜け落ちているように思えてならない。一体何が抜けているのか。カタカナでクリスマスと書いてしまうと、分かりづらいかもしれないが、Christmasと書くと分かるように、クリスマスとは”Christ’s mass”が短くなったものである。つまり、クリスマスを日本語で正しく言うのであれば、「キリストの礼拝」となるだろう。はっきり言って、街の中で見かける「クリスマス」とは似ても似つかぬものである。イエス・キリストの抜きにしてはクリスマスは存在しえないのである。巷のクリスマスとは、クリスマスという名前を借りた、ただのお祭り騒ぎでしかない。

そのようなことを考えていると、私の運がないとか、そんなことを言っている場合じゃないことに気づかされてしまう。キリストのいないクリスマスの方が、よほどの大問題ではないか。

人は何を求めて日々過ごしているのだろうか。おそらく多くの人は、何か良いものを求めているだろう。すべては運次第と、そのような不確かなものに身を任せていたら、その人は流され続けて、結局どこにもたどり着けないだろう。では努力で良いものを得ようとするだろうか。努力は否定しないが、常にモチベーションを持ち続けることができないのが、残念ながら人というものであろう。遅かれ早かれどこかで挫折を味わうはずだ。それで立ち直ればよいが、その先も葛藤があることに違いはない。そうすると、努力も確かとは言い難い。

それでは、確かなものとは何であろうかと考えたとき、最初のクリスマスの時の、この出来事が思い出された。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」(マタイの福音2章1~2節)イエス・キリストを求めてはるばる旅をしてきた博士たちがいた。彼らの旅の目的はただ一つ。ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝むためだった。

聖書にはさらにこう書かれている。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(同10~11節)博士たちは目的を達成でき、また彼らは多いな喜びで満たされたのだ。

イエス・キリストがあってこそのクリスマスであるように、人の日々の歩みも、イエス・キリストがおられるからこそ確かなものとされるのだろう。何に目を向けて人生を過ごすか、賢明な選択をしたいものだ。