神によって造られた

新しい一年の始まりである。今年はどんな一年になるだろうか、とぼんやりと考えるよりも、今年はどんな一年にしていこうかとか、今年はどんな一年にしたいのだろうか、と前向きに、積極的に考える方が生産性が上がって良いのかもしれないと、そう思っている今日この頃である。

一年の計は元旦にあり、と考えるときに、ここ十年、いやもしかしたら二十年くらいになるかもしれないが、真っ先に思いつくのは、今年こそは体重を落とすとか、痩せるとか、そういうことが多いような。毎年毎年飽きもせずに同じことを思いつのかと、自分の発想の貧弱さを恨めしく思うこともあるのだが、よくよく考えてみれば年末から年始にかけて、クリスマスの時期とも重なっていることもあり、家の中に食べ物が豊富にあってためらうことなく食べてしまうから、自然と体重が増してしまうのである。なお、このひと月の間にどれだけ重量を増してしまったのかと気になって体重計に乗ってみたら、2キロ近くも増えていることが発覚。これが現実だから、真っ先に頭に浮かぶのが「痩せなきゃ」というのも納得できよう。「天高く馬肥ゆる秋」と言うけれども、私の場合は一番肥えるのは冬のこの時期なのである。体に脂肪をつけて寒さをしのぐとか、そんな言い訳も通じないだろう。むしろ、その余った脂肪を燃焼させて、体を暖めるくらいの運動をする方が色々と効果的な気がする。

さて、真面目な話に戻すと、今日から始まるこの新しい年を私はどのように過ごしていこうか。2キロほど増し加えられた体重も然り、もちろん去年から持ち越された課題も残されているわけで、それらも含めて対処しなければならないことは多くある。しかし、あまり多くのことを考えても仕方ないだろう。私はそこまで賢い人間ではない。実現するのが難しそうな高い目標や、数多くの目的を掲げても達成できそうにないのは、経験上分かっている。そうやって無理をしたところで、一年の終わりに振り返った時に後悔するだけである。

頭に浮かんでは消えていく様々な「一年の計」がある。しかし、その中で一番重要なことは何であろうかと考えてみるのだが、人としての欲張りな性が邪魔をするのか、いずれかひとつを選ぶのは難しい。

たとえて言うならば、ちょうど太陽があって、その周りを惑星が回っているようなものだろう。まず私という人間がいて、その周りを様々な「やらなければいけないこと」や「やりたいこと」がぐるぐると回っているような感じである。そして惑星の周りを衛星が取り巻くように、私の「思うところ」の周りにはさらに小さな「課題」とか「問題」などがついて回っている。これだけ多くのもののうちから、どれかひとつだけを選ぶとしたら、どれが正解になるのだろうか。一番大きなものを選ぶのが良いか。それとも反対に一番小さなものを選ぶのが良いのか。そもそも、どれが大きくてどれが小さいのか、それさえも決められないのでは。

しかしながら、ひとつひとつの目標や目的は違っているかもしれないが、ひとつだけ共通しているところがある。それは、私の目標や目的であるということだ。誰のものでもなく、私のものなのである。そう考えると、まず私という人間がどうあるべきか、ということが重要になってくるのではないか。

ところで聖書にはこう書かれている。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネの福音1章1~3節)

つまり、神によって造られた私であることが、あらゆることの前提にあるのだ。私が今ここでこうしているのは、神が望まれたからなのである。もちろん、これは私だけに当てはまることではない。この地上で生きるすべての人々にとって言えることなのである。その人が何と考えているか、どう思っているかで、事実が変わるわけではない。

造られたものとしては、私たちを造られた神との関係を密にすることが何よりも重要なのではないか。この一年、今までにも増して、神に心を向け、神に思いを巡らすようにしていきたいものである。結果として、そうすることがその他すべての「やるべきこと」「やりたいこと」への解決につながるのではないか。イエス・キリストはこのように仰っている。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音6章33節)