富を蓄える

最近、レンタルビデオのTSUTAYAの店舗が減っているような気がする。歩いて行けるところにあった近所の店舗は数年前に閉店して、跡地は業務スーパーになってしまったし、ちょっと車で行くことができた店舗も、昨年閉店してしまった。職場の近くのレンタルだけでなく、古本や中古DVDやCDを扱っていた店舗も、今は書店だけになってしまった。これも時代の流れなのだろうか。今では映画も音楽も、わざわざ実店舗まで借りに行かなくても、インターネットで全て手に入れることができるのだから、便利になったのも確かである。かく言う私も、最近家で映画や海外のドラマを見るときは、ケーブルテレビ以上にアマゾンを利用している。そんなわけでレンタルビデオ業界は斜陽産業なのではないかと、そのような先入観を持ってしまいがちである。TSUTAYAはあまり儲かってないのではと、余計な心配をしてしまう。


ところで先日、都心の仕事現場に行った際、昼食を食べようと外に出たとき、近くのTSUTAYA(正確には、この店舗は漢字で「蔦屋」と表記されていた)の駐車場を横切ったのだが、そこで私が目にしたのは、ただのレンタルビデオ屋の駐車場ではなかった。想像をはるかに超えた光景であった。フェラーリ、マセラティ、ロールスロイス、ベントレー、アストンマーティン等々、家が建ちそうな値段の高級車がとめられている。メルセデス、BMW、アウディ等もとまっていたが、それすらが霞んでしまいそうな感じである。どうやら、この蔦屋は売り上げに困ることもなさそうである。そういえば、この蔦屋がある街は私が知っている他の街とは何かが違う。マイバッハとか、横浜でも滅多にお目にかかれない車が走ってる。それよりもっとすごいのは、私の見間違いではなければ、日本限定8台のシボレーのコルベットが、なぜか古びたリサイクル着物の店の駐車場にとまってるんだから。


一体、この街の住人はどのような金銭感覚を持っているのだろうか。富裕層が多いことは分かるが、中途半端な富裕層ではないだろう。その程度が計り知れない。いや、羨ましくないよ。うん、全然羨ましくない。フェラーリも欲しくないし、コルベットもいらないぞ。神が私の必要を満たしてくれるから、この世の富など必要ない……と、言えるほどの純粋な信仰を持ち合わせていない。なんてことない、日本の狭い道でデカくて馬力のある車を走らせるだけの自信がないから、欲しくないだけである。でも、それらを手にするだけの経済力は、正直羨ましい。私もまだまだ俗物である。


それにしても、改めて考えてみると、人は何も持たずにこの世に誕生して、一生を掛けてどれほどの富を築いたとしても、やがて時が来れば何も持たずにこの世を去らなければならないというのが、すべての人々、富める者や貧しい者の区別なく当てはまる事実なのである。現世で苦労をした者が来世では幸せになるとか、現世を贅沢に過ごした者は来世で困難な目に遭うとか、ともすれば人はそのような根拠のない妄想に、持たざる者としての淡い期待や、持つ者に対する一方的な恨みを込めたりしたくなるものであろう。しかし、これもまた一時の慰めにしかならない。


もし、多くの物を所有することを富と考えるのであれば、そもそも富に対する考え方を見直した方がよいのかもしれない。イエス・キリストはこのように言っている。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイの福音6章19~20節)


事情はあるのだろうが、ドバイでは家が建つほどの高級車でも、砂塵にまみれて捨てられているとか。形あるものは、いつかその形を失う。そのようなものをいくら蓄えたところで、永遠には続かない。たとえ持ち主より長続きしたとしても、いつかは朽ち果てるのだ。目に見えるこの世界は永遠ではないからだ。そのような限りある世界に富を蓄えるのは、虚しいことのように思われる。であればなおのこと、永遠に果てることない天に富を蓄えることの方が理に適っているように思われる。ただ私に分からないことがある。それは天に蓄えた富が、どのようなものであるかということだ。これは、天に行ってからの楽しみにとっておくしかないだろう。


イエスは続けて言っている。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(同21節)であれば、私たちの心と思いを天に向けておくことが、まずは天に富を蓄えることの始まりなのだろう。