マスクする?

毎日マスクをするようにと、先日妻が私と娘たちに言った。ここ最近は、私の方が娘たちよりも早い時間に仕事に出てしまうので、彼女たちがどうしているのかは分からないが、私は妻の言いつけを守って、マスクを着けて出掛けていた、言われてから二日間だけだったけど。もっともその二日間もマスクをしていたのは電車の中だけだったわけで、常に着用していたわけではない。どうも、好きになれないのである。あの独特の匂いとか、隙間から漏れた息で眼鏡が曇るのとか、新鮮な空気を吸っていないような気分とか、電車のガラスに映るマスク姿の自分に違和感を覚えるとか、理由は色々である。感染症の予防のためだからとは言うけれど、マスクをして生活をするくらいだったら、いっそのことインフルエンザでもなんでも感染しても構わないや、と思ったりする。もっとも自分が風邪をひいてしまった場合には、マスクをするように心掛けている。さすがに、周りに病原菌をまき散らしても構わない、と思うほどには自分勝手ではない。

もっとも一般的に売られているマスクの本来の目的は唾液や鼻水などの飛散を防止するためで、外部からの感染を予防するためのものではないとも言われている。そう考えると、話題の新型肺炎も、毎年猛威をふるっているインフルエンザも、我々がどれほど必死になって予防に努めたところで、多少なりとも感染のリスクを下げることはできるだろうが、やはり完全なものではない。残念ながら、なるときはなってしまうのだ。あまり過敏になってもかえってそれがストレスになってしまっては本末転倒なので、ここは適度に緩く構えた方がよいのかもしれない。もっとも私は医者でも何でもないので、自分が思うところを言っているに過ぎないが。

ところで世界中に広がりつつある新型肺炎だが、WHOも緊急事態を宣言することとなった。昨年12月に中国国内で原因不明の肺炎患者が発生して、ひと月の後には日本も含めてアジア諸国、北米、欧州、オーストラリアやアラブ首長国連邦でも患者が確認されている。患者の総数はもうすぐ1万に届きそうな勢いである。各国にて様々な対策がなされているが、さて、これからどうなるのだろうか。専門家ではない勝手な私の予想であるが、おそらくこのまま広がることは止まないだろう。人の動きは、そう簡単には止められない。

しかし改めてこの事態を考えたときに驚かされるのは、人間の目では見えないほどの小さなウイルスが、これだけの短い期間に世界各地に広がり、文字通り世界中の人々に影響を与えておきながら、まだ誰もそれを止めることができないでいるという事実である。

あまり良いたとえではないかもしれないが、信仰というのはウイルスのようであるべきで、また信仰者とはウイルスの感染者のようであるべきなのかもしれない。もちろん人を不安にさせるとか、人を苦しませるとか、そのような悪いところではない。そうではなくて人目に触れることなく、国境を越えて、言葉の壁にも妨げられることなく、文化文明の違いにもまったく影響を受けずに、世界の隅々まで浸透していく、誰にもそれを止めることはできない。そして気づいた頃には、これもまた言い方は悪いが、時すでに遅しで自分の身近にまで迫っている。ウイルスならではの表立たない秘めたる影響力とでも言おうか。

思えば、二千年前の地中海沿岸で生きていた、イエス・キリストというひとりの人物のことが、今日でも語り続けられているのは、もしかしたらウイルス以上に強力な人々の信仰心によるのではないだろうか。今までも、今でも、そしておそらくこれからも、イエス・キリストの福音を語る口にマスクを被せようとする勢力は存在し続けるだろうが、それでも福音の「蔓延」は誰にも止めることができなかったし、今後もできないに違いない。二千年も感染し続けたのだから、この先もずっと、イエス・キリストが再びこの世にやってくるその時まで、世界の果ての果てまで広がり続けるだろう。

イエス・キリストは弟子たちに、このように言っている。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」(マタイの福音5章13~14節)

信仰者と自負するのであれば、人がその信仰を隠すのは信仰者として価値を失うことである。塩が塩っ気を失っては、もはや塩としての価値はない。光が何も照らさないのであれば、もはや光である必要がない。人に病気を移さないように、咳をする口にマスクをするのは良い。しかし福音を語る口、信仰を告白する口にマスクをしてしまっては、何のメリットがあるだろうか。それらは世の中に蔓延させてこそ価値があるはずだ。もとより、神の福音を伝えることこそが、イエス・キリストが我々に望んでいることではないか。