ひとつしかない福音

髪を切った。何か深い意味があるわけでもない。あえて理由を挙げるとしたら、髪を洗うのに手間が掛かりすぎると感じるようになってきたことだろうか。それ以外にも、ぼちぼち変化をつけてみようかと思ったこともある。要するに飽きてしまったと言えば、その通りかもしれない。さて、結果どうなったか。たしかに、髪を洗うのは楽になった。前はシャンプーをして、リンスをして、ドライヤーは面倒だからやらなかったけど、寝るまで自然に乾くのを待っていた。それが今では、リンスインシャンプーで済むし、タオルで拭けば、ほとんどの水気は取れて、乾くまでさほど待つ必要もなくなった。時間の節約になっている気がする。妻と娘たちの高いシャンプーやリンスを使わずに、安いリンスインシャンプーで済むので、経済的にも節約になっているかも。ついでに言うと、水道代とガス代もちょっとは節約になっているかも。


それでは、何か変化はあっただろうか。あったと言えば、そうかもしれないのだけれども、どこか思っていたのと違うような。妻からは「髪切ったんだ」くらいの反応しか得られなかったし、娘たちからは「寂しい」とか「目立たない」とか言われてしまった。仕事に行けば、大多数は無反応。得られたコメントと言えば「誰か知らない人がいると思った」とか「面白くないなぁ」とか、挙句には「どうしちゃったんですか!?」とか。悲しいかな、良い反応は得られていない。まぁ、人からどう見えるかとか、どう思われるかは、あまり気にしていない。肝心なのは、自分がどう感じているかだ。そう思って、鏡を見るのだが……違和感を覚えてしまうのは否めない。慣れていないだけかも、と思うのだが、何かが違うのである。これじゃないんだよなぁ、と思ってしまうのだ。何というか、普通過ぎてつまらない。


さてそこで問題になるのは「次はどうしよう?」ということだ。いっそのこと、もっと短くしようか、それともまた伸ばそうかとか……うーむ、しばし悩んでみるとするか。


閑話休題。それにしても、一つのことに関して、異なる視点から見ると、それを肯定的にとらえることもできるし、同時に否定的にとらえることもできるのだから、何ともやっかいなものである。


イエス・キリストがまだ地上で活動していた時も、やはり様々な人々がそれぞれ異なった視点で彼のことを見ていたようである。律法学者たちは彼を脅威と見なしていたが、一方で民衆は彼のことを奇跡を起こすありがたい人と見ていた。また弟子たちのように、彼を「主」として信仰の対象として受け入れていた人もいた。イエス・キリストは一人だったはずである。何人ものキリストがいて、同時多発的に色々な場所に現れて、それぞれに思い思いのことをしていたわけではない。もちろん神の性質には”omnipresent”(遍在性)もあるのだから、キリストがそうしたいと願えばそうすることもできたはずだが、人としてこの地上に生まれたからには、そのようなことはしなかったはずだ。人々は同じイエス・キリストを見ていたはずである。


しかしながら、思いや考えなどの内的な環境や、職業や健康状態などの外的な環境によって、キリストの姿は、それぞれに異なったものとして人々の目に映ったようだ。慣習は守るべきものとして教えられきたし、また人々にもそのように教えてきた律法家にしてみれば、それまで彼らが築き上げてきたものが崩されそうな危機感を覚えるだろう。病に苦しんでいた人にとっては、どのような医者も治すことできなかったものが、キリストの働きで癒されたら、まさしく彼は奇跡の人としての噂は広がるだろう。そして、キリストと共に過ごし、彼のなさる多くのわざを見て、また彼の語ることばを聞いて、彼に従うことを決めた人にとっては、彼は主であり神の子であった。


そういえば、神の福音、すなわち神の良き知らせについても同じことが言えるのではないか。イエス・キリストご自身も、たとえ話の中でこのように言っている。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」(マルコの福音4章3~8節)


ひとつしかない神からの良い知らせも、それを聞く人によってその扱いは様々なのだろう。幸いなのは、福音が根付いて実を結ぶ人たちだ。そうなるために、実を結ばせるような良い地を自らの内に整えておきたい。