神に委ね、神は報いる

「さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。」(出エジプト記2章1~2節)これだけ読むと、エジプトに住んでいるイスラエルの民のどうということのない日常の営みのようである。しかし日常ではないのは、この夫婦は我が子を隠しておかないといけなかったということである。普通であれば、自分の子供には彼らが住まうこの世界の様々な風景を見せたいと思うだろう。晴れ渡った青い空、野に生える草木や咲く花、地に住む獣たち、日々の糧を得るために働く人たち、そして一日が終わり日が沈み、訪れた夜の闇を照らす星々、創造主たる神が備えられたあらゆるもの。ところがこのレビ人の夫婦はそうすることができなかった。いや、彼らだけではなかったろう。エジプトに移り住んでいたイスラエルの民にすべてが同じような境遇にあった。

それというのも、イスラエルの民に恐れを覚えたエジプトの王が、イスラエルの家に男の子が生まれたら殺すように命じていたからだ。とはいえ、さすがにそのような残酷な命令に従うものはいなかったようだ。神を恐れた助産婦たちがパロの命令に背いてまで、イスラエル人の男の子を助けたのは前にも見た通りである。おそらくこのレビ人の夫婦の赤ん坊も同じように、神を恐れる助産婦によって救われたのであろう。そして三か月の間、誰にも見つかることなく過ごしていた。だが、夫婦はここで気付いたのかもしれない。赤ん坊のうちは何とか周囲の目をごまかすことができるかもしれないが、やがて子供が成長したら自然と人に知られることになるだろうと。そしてエジプト人に知られたら、もしかしたら殺されてしまうかもしれないと不安になったことだろう。

この赤ん坊の親はどうするか悩んだに違いない。自らの手でその命を奪うか。さすがに、それはできなかっただろう。それができなかったから人目を避けて育てていたのだから。それではエジプトの地から離れたところに逃がすか。まさか赤ん坊一人で逃がすわけにもいかないから、親も一緒になる。だがそうなると、一家がいなくなったことは遅かれ早かれ知られてしまうだろう。エジプト人に追われて最終的には一家皆殺しの目に遭うかもしれない。あれこれと悩んだことだろう。やがてたどり着いた結論はこうだった。「パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。」(同3節)

誰かに拾われてその家の子供として育てられるのであれば、それで子供の命が救われるのであれば、それが何よりであろう。もし運悪くワニの餌食になってしまうか、さもなければかごが流されて、どこかで沈んでおぼれてしまうとしたら……それは人の手によって命を絶たれたことにはならず、自然に起きてしまったことだから、やむを得ないと諦められるかもしれないと、そう思うことにしたのだろうか。

もっとも赤ん坊の親がどう考えたのかまでは書かれていないから、本当のことは分からない。あくまでも私の勝手な想像になってしまうが、おそらく彼らは赤ん坊のことを神の御手に委ねようとしたのではないか。自分たちの力だけでは赤ん坊の命を救えないことに気付いたから、自らの手から離して、神が自由に働けるようにしたのかもしれない。御心ならば助かるように、と考えたのかもしれない。

さて結果から言うと、神は赤ん坊を見捨てなかった。「パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、『これはきっとヘブル人の子どもです。』と言った。」(同5~6節)

なんということか、赤ん坊を殺すことを命じていたパロの家の者、それもパロの娘に見つかってしまった。よもやエジプト人の赤ん坊が捨てられるわけがないから、イスラエルの民の子であると察したのだろう。彼女の立場からすれば、父である王の言いつけに従うべきだったのかもしれないが、彼女はこの子のことを憐れに思い、自分の子として育てることにしたのだ。

ちょうどその場で成り行きを見守っていた赤ん坊の姉が機転を利かせ、母親を乳母としてパロの娘に引き合わせたために、結果としては本当の母親が育てることになったのだ。不思議な偶然と言うべきか、それとも神が備えた巡り合わせか。おそらく親が赤ん坊の行く末を神に委ねたことに、神が最善の方法で報いられたのだろう。そして母親はその子が成長するまで、面倒を見ることができたのだ。「その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。」(同10節)