まだ寄留者のまま

「ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。」(出エジプト記2章16~17節)思い出してみよう。モーセはエジプトでへブル人を虐げていたエジプト人を殺し、その翌日にはへブル人同士のいさかいを仲裁しようとした。ところが誰があなたを指導者にしたのかと言い返され、さらにはエジプト人を殺したように自分を殺すのかと疑われてしまった。良かれと思ってしたことがことごとく裏目に出てしまったのである。不運だと言えばそうかもしれないし、神に委ねずに自らの意思で正義を行ったことの結果であるといえば、そうとも言えよう。

やがて彼がエジプト人を殺したことは、王の知るところとなり、命を狙われてしまい、国を捨てることになった。もちろんそれだけで彼の性格が変わるということもなかったようだ。ある日、逃げた先のミデヤンという土地で、彼が井戸のそばで休んでいるときのことだった。家畜に飲ませるための水を汲みにミデヤンの女性たちがやってきたのだが、そこに羊飼いたちがやってきて、彼女たちを追い払って水を横取りしようとしたという。当然、荒れた土地だから水は貴重であったろうし、井戸から水を汲み上げるというのも重い労働であったろう。もし羊飼いたちが水を奪ったら、彼女たちはもう一度水を汲み直さねばならないわけで、そのような不正はあってはならないことである。当然、モーセのような人物が黙っているわけがなかった。

それにしても、何かと騒ぎを起こすことが多かったようであるが、彼が正義感の強い人物であったということに間違いはないだろう。ちょっとばかり口よりも手が出やすいところはあったかもしれないが、自分の利益を目的として相手に手を出すことはなかったからだ。あくまでも他人のために、という思いでの行動だった。

ところで今回の事件は、その後どうなっただろうか。ここは彼の故郷エジプトではなかったし、彼の父祖たちの故郷でもなかった。また彼が助けた女性たちも、馴染みのあるエジプト人でもなければ同胞のヘブル人でもなかった。まったく彼にとっては縁もゆかりもない全くの異国であり、周りにいるのは異邦人たちであった。(もっとも彼女たちから見れば、モーセの方こそが異邦人であったのだが。)考えてもみれば、彼にとっては、あまり好意的な環境ではなかったとしても不思議ではない。

さて彼女たちが家に帰ったとき、彼女たちの帰りが思っていたより早いことを不審に思った父がその理由を聞くと、彼女たちは答えて言った。「ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」(同19節)

彼女たちの帰りが早かったということは、いつもはもっと家畜の水やりに時間が掛かっていたということだろう。そして時間が掛かっていた理由は、もしかしたら今回のように、羊飼いたちに意地悪をされていたからなのかもしれない。普通にやっていたら早いと驚かれてしまったということは、彼女たちの仕事に常に何らかの邪魔が入っていたからと考えても間違いではないだろう。

ところで彼女たちを助けてくれたエジプト人の姿がどこにも見当たらないことに気付いた父は、娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」(同20節)

見ず知らずのエジプト人を食事に招こうというのだから、ミデヤンの祭司はモーセに感謝をしたかったのだろう。思いがけないことに、故郷エジプトから遠く離れた異国の地で、同胞であるヘブル人ではなくミデヤン人によって、初めて自身の行いが認められたのである。ようやく彼も平安を覚えたのだろう。それもあって祭司の家に落ち着き、娘の一人チッポラを娶り、息子を持つに至ったのである。何の不自由もなく、何の不安もなく日々を送っていただろうが、それでもやはり彼には自分自身がヘブル人の生まれであることを忘れることはなかった。そのような思いがあったからこそ、彼は息子にゲルショム、「私は外国にいる寄留者だ」(同22節)という名前を付けたのだろう。

モーセが異国で平穏な日々を過ごしているとき、エジプトに残してきた同胞はどうしていたか。年月を経てヘブル人を根絶やしにしようとした王が死んでも、イスラエルの民の暮らしは改善するどころか、苦役は増すばかりだった。モーセも彼らのことを忘れたわけではなかっただろうが、ただ彼にはどうすることもできなかったし、そもそもどうしてよいのかも分からなかっただろう。だがイスラエルの民の嘆きは神にも届いた。「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」(同24~25節)