燃える柴からの声

「主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。『なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。』」(出エジプト記3章2~3節)イスラエルの民が嘆きの声、苦しみの叫びを上げていた頃、モーセはエジプトから遠く離れたミデヤンの地で羊飼いとして、誰が見ても平穏な日々を過ごしていたことだろう。さすがにそこは正義感の強い彼のことだから、同胞であるイスラエルの人々のことを忘れたことはなかっただろう。しかし彼はエジプトに戻ってまで、同胞のために何かをしようとまでは考えなかったに違いない。もしそのような思いがあったら、モーセほどの人物なら駆け出してエジプトに向かったことだろう。だが、彼は羊飼いとしての生活に甘んじていた。そんなある日のこと、ここに書かれているような、不思議な出来事に遭遇したのである。

何が不思議なのか、神の御使いが現れたことだろうか。私なら、それも十分にあり得るだろう。だけれどもモーセが目を奪われたのは、燃え盛る炎の中に、炎で焼かれながらも燃えないでいた柴があったということだった。柴が何かはよくわからないし、そこはあまり重要ではないのかもしれない。勘違いしやすいが「隣の芝は青い」の芝(grass)ではない。「おじいさんは山へ柴刈りに」の柴(bush)である。昔の日本では燃料として使われた雑木の枝といったようなものである。燃えやすくて然るべきものが、火の中にあっても燃えていないのだから、それを不審に感じたに違いない。今の時代であれば、写真を撮ってすぐにSNSに上げるようなものだろうか。

もしかしたら「なんと不思議なことか!」と驚いて、それ以上の疑問を持たずにそのまま羊を連れて家に帰ることもできたかもしれないし、柴は燃えなくとも熱くてやけどをすると危ないからとそのまま立ち去ってしまったかもしれない、ところがモーセは興味から近付いて行って、実際に見ることにしたのだった。どちらかと言えば直情的な彼だと思えば、さもありなんというところか。

さて彼が炎の中の燃えない柴に近づくと、その中から「モーセ、モーセ」と神が彼を呼ぶのが聞こえたという。するとモーセは「はい。ここにおります」と答えたそうな。(同4節)ちょっと、待て。さすがに、簡単に返事をしているんじゃないのか。そこは少し考えるべきじゃなかったのか、何の疑問も持たなかったのか、などと私のような人間は考えてしまうのだが、そこが素直なモーセと懐疑的な私との違いであろう。神の呼びかけに疑いを持たずに答えることができるか、それともまずは自分の頭で色々と考えて神の声を聞き逃してしまうのか。どちらを神は喜ばれるのか、どちらを神は用いられるのか。やはりモーセのように神を疑わない者であることが明らかになってくる。

神はモーセに言った。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(同5節)

モーセは神のおられる場所にいたのだ。彼を呼んだ神とは一体何者なのか。神はあらためて御自身が誰であるのかを、こう説明している。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(同6節)モーセの父祖の神、すなわちイスラエルの民の神であるということだ。

神の語られることを聞いて「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」(同6節)イスラエルの民の苦しみに気付いていながら何もせずに、自分は安住の地を見つけて日々平安のうちに暮らしているという現実に気付いて、そのような自分を呼んだ神に対して、彼は恐れを抱いたのかもしれない。自らの立場を振り返り「神はなぜ私を呼んだのか、私に試練を与えに来たのか、イスラエルの民を後に残した私を罰するのか」と、そのような不安を抱いたかもしれない。彼は神の前に膝を屈めることしかできなかった。

はだしで地にひれ伏しているモーセに神はこう言った。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(同10節)

神は御自身の代理としてモーセを選び、イスラエルの民をエジプト人の手から救い出し、乳と蜜とが豊富にある、広々と良い地へと導くために、彼を用いることにしたのだ。