全きいのち

もうあれから何年経ったことだろうか。少なくとも四半世紀は経ってしまっただろうか。それでもまだ私の心の中に残っている景色がある。イースターの朝、普段の日曜よりも早く起きて、朝の早い時間に、公園の中にある小さな湖の畔で行われる礼拝に参加する。そして礼拝が終わった後には、シアトルの街並みを対岸に見ながら海岸沿いの道を行ったところにある、打ち寄せる波の穏やかなピュージェット湾に臨むカフェで、まだ温かさの残るシナモンロールにホイップバターをたっぷりと載せて食べる。なんと贅沢な朝の過ごし方だろうか。まだ若くて、たいした悩みや心配も、負うべき責任もなく自由に過ごしていた頃だ。あのような日はもう二度と巡ってこないかもしれない。だが、それも仕方ないことかと、あの頃を懐かしむ自分自身と和解できるほどには私も成長したようである。

さてここ最近になって、ようやくイースターの知名度も上がってきたように思われる。とは言え、まだクリスマスほどには知られていないというのが現実であろう。さらに言えば、イースターと言うと、なぜかたまごが連想されてしまうようであるが、たまごが主役の日ではない。たしかにイースターエッグとは言うけれども、クリスマスにとってのクリスマスツリーがそうであるように、本来の意味や目的を象徴するための脇役でしかない。

ところでクリスマスとイースターとは、まだその知られ方に大きな違いがあることは確かである。しかしそれらが持つ重要さには違いはない。クリスマスほどに知られていないからと言って、イースターがクリスマスより下にあると考えるのは間違いも大間違いである。もちろんクリスマスとイースターは、その意味はまったく別のものである。しかしこの両者を切り離して考えることは不可能なのである。

もし私たちがクリスマスだけを受け入れたとしたら、私たちにとってキリストはどのようなお方になるのだろうか。処女から生まれた赤ん坊、ヨルダン川で天からの声に「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイの福音3章17節)と告げられた神の子、人々に神のことばを伝えた偉大な教師、病める人々を癒した奇跡の人、人々を解放すると期待されていたユダヤ人の王、自身の身には何一つ汚点がないにも関わらず、人々の罪を背負い身代わりとなって十字架につけられたいけにえの子羊……それがイエス・キリストというお方である。

しかしキリストは十字架につけられ墓に葬られた、というところまでが福音だとしたら、キリストはその後どこへ行ってしまったのだろうか。普通に考えれば墓で朽ちてすべてが終わってしまうだろう。残念ながらクリスマスだけで済ませようとしたら、救い主としてのキリストは存在しないのである。なぜなら彼は神の子であったかもしれないが、遠い昔に死んでしまい、そのまま墓の中で塵となってしまったからだ。たとえ生きている間に数多くの奇跡を行い、時に死んだ人を生き返らせることがあったとしても、自身が死んでしまってはどうすることもできない。たとえ神の子であり、自身も神であったとしても、死んだままの神にいかなる希望を見いだすことができようか。墓の中で朽ちてしまった神の子を礼拝するのは、それこそ偶像を礼拝するのとさほどの違いはないのではないか。

そのように考えてみると、クリスマスの夜にキリストがこの世に来られたというだけでは十分ではない。キリストがこの世において人々と共に歩まれ、人の苦しみや悲しみや喜びを分かちあったとしても十分ではないし、また人々に神のことばを教え、神のわざを行ったとしてもまだ足りない。自らのいのちを人々の罪の代価として捧げたとしても、救い主としてのキリストの働きは完全ではないのである。それは、救いへのきっかけであり、足掛かりなのである。

たしかに罪を赦すためであれば、そこまですれば十分であろう。しかしイエスが死んだままでは、その先がないではないか。イエスがこの世にやってきた目的は贖罪だけではない。イエス御自身もこう言っているではないか。「人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音3章15節)イエスは永遠のいのちを与えるために、人としてこの世に来られたのである。それを完成させるのがよみがえり、すなわち復活なのである。キリストは今この瞬間も生きておられるし、これから先も永遠に生きておられるのだ。永遠のいのちを御自身で持っておられるから、それを人にも与えて下さることができるのではないか。もしキリストが死んだままであったら、人はやはり死んだままであったろう。

キリストが処女マリアより生まれたこと(=クリスマス)は信じるが、彼が死からよみがえったこと(=イースター)は信じないというのは、信仰としては片手落ちであり不完全なものである。いずれか一方だけを受け入れて、五割の信仰はあるから、五割の永遠のいのちを得ることができる、というのは考えとして無理があるだろう。永遠のいのちは完全なものであり、それはキリストの誕生と復活の双方を受け入れる信仰によって得ることができるのだ。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(同11章25節)