今、行きます

「モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』」(出エジプト記3章11節)神がモーセのところに現れて、エジプトに戻りイスラエルの民を連れ出せと命じたことへの、モーセのリアクションである。やはりモーセといえども、不安がまったくなかったわけではないようだ。彼の不安とは何だったのか、エジプト人に見つかって捕らえられたらどうしようか、王の元へ連行されて殺されてしまうのではないか、という彼の身の上に起きることを心配していたのだろうか。誰であれ自らの命を付け狙うものがいるような場所に行きたいとは思わないだろう、誰しもがそう考えるに違いない。モーセがそのように思ったとしても不思議ではない。

しかしどうやらそうではなかったようだ。少なくとも、モーセの神への問いかけを読む限りでは、モーセがそのような不安を持っていたとは読み取ることができない。彼の不安は「私はいったい何者なのでしょう」という一点であったのではないか。さらに考えてみると、彼のそのような悩みには二つの側面があったようだ。

まずひとつは、エジプト王のもとに行かなければならないとは、自分はそのような立場にある人間ではない、ということであろう。だが本当にそうだろうか。少し前のことを思い出せば分かることだが、彼はかつてはエジプトの王族のひとりであった。血のつながりはなかっただろうが、彼の母はエジプトの王女だったではないか。もちろん彼は狙われていただろうが、王の前に申し開きをするだけの機会は与えられるだろう。他のイスラエルの民は王宮に入ることすらできなかっただろう。モーセだけがエジプト王のもとに行くことのできるたったひとりのイスラエル人であったという現実があったではないか。

そしてもうひとつは、イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは、自分にその役目は相応しくない、ということであろう。モーセがそう思ったとしても、仕方ないかもしれない。なぜなら同じイスラエル人からはあまり信頼されていなかったというのが、事実だったからだ。確かに彼の父も母もレビの家の出身ではあったが、彼自身はどうかと言えば、こともあろうにイスラエルの民を圧迫しているエジプト人の家で育ってきた。これを見て、他のイスラエルの民はどう思ったか。憎んだり妬んだりこそすれ、誰一人として彼に良い感情は持っていなかっただろう。だが彼を他のイスラエル人と異なる存在にする理由は他にもあった。彼はエジプトの外の世界を知っている唯一のイスラエル人であり、さらには神と出会い、直接会話をしたことのあるたった一人の人間であった。果たして彼を置いて他に誰が、イスラエルの民をエジプトの地から連れ出すことができるのだろうか。

そのような思いを持っていたであろうモーセの問い掛けに対して、神はこう仰られた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」(同12節)

神がモーセと共にいる。モーセはひとりではない。彼がこれからエジプトに行こうとも、パロの王宮に行こうとも、イスラエルの民をエジプトから連れ出そうとも、どんなときでも神ご自身がモーセと一緒にいるということだ。

神がモーセを送り出す。モーセが自分の意思だけで行くのではない。彼が彼自身の目的を達成するためにエジプトに行くのではない。神の目的を実現させるために、神の使命を帯びて、そして神の後ろ盾があって、エジプトに向かうということだ。

それだけではない、モーセはこれを誰かから人づてに聞いたのではない。「わたし」と一人称を使う神から、「あなた」と二人称で呼び掛けられているのだ。神との関係でこれほど親密なものが他にあるだろうか。

モーセは神に答えて言った。「今、私はイスラエル人のところに行きます。」(同13節)思い立ったが吉日とばかりに、モーセは神とことばを交わしているこの瞬間に、エジプトにいる同胞のところに向かうことに決意したのだ。明日でもなく、都合の良い時でもなく、家族に相談してからでもない。

この後、神はモーセにさらに細かい指示を与えて、さらに話しに自信のない彼のために彼の兄アロンが助けてくれるとも伝えた。

神から何をすべきか示されたとき、まさにその時が行動するときなのだろう。神が待ってくれないというわけではないだろうが、後回しにすると、当の本人が神と共に何かを為すという貴重な機会を失うことになるかもしれない。それは人にとって大きな損失になるだろう。